■『3LDKのプリンセス 川嶋紀子さんの魅力のすべて』(2) 印刷

 ここから引き続き、川嶋紀子さんの”シンデレラ・ストリー”を。『3LDLのプリンセス川嶋紀子さんの魅力のすべて』の続きです。

 

Part 3:礼宮さまとの”キャンパスの恋”のすべて

 

 出会いは構内の書店。ひと目惚れされた礼宮さまは、恋の勝利者となり、お2人はデートを重ねる。礼宮さまの英国留学で涙する日もあったが、皇室離脱を賭けてまで恋の成就を願った礼宮さまの情熱が、すべての障害を押し切った!

 

◇平成元年9月12日の皇室会議で正式に婚約が決定。

 プロポーズは信号待ちで!

「話をしていて楽しい人、そういう人なんですね。また、どことなく愛矯があるというか……、かわいいな、と……」

 平成1年9月12日 の婚約記者会見で、礼宮さまは、こう紀子さんについて語られた。記者団の“どこに魅かれましたか?”の質問に答えられたものだったが、この言葉のすみずみ まで礼宮さまのハッキリした意志が感じられた。多少照れながらも礼宮さまは堂々と、紀子さんを心から愛していることを述べられたのである。

 一方の紀子さん。

 礼宮さまに向けられたのと同じ質問に、

「生物、たとえば御所内で飼っていらっしゃるナマズやアヒルなどを可愛がっておられるお姿とか、あと、魚類の研究に熱心なお姿とかに強く魅かれました。

また、タイのお酒“メコン”に誘われるまま先生やご友人と語り、またギターを弾かれたりするご様子に魅かれました」

 と、かぼそい声で少々早口。

 礼宮さま以上に照れている様子がありありと感じられたが、それにしてもじつに初々しくさわやか。心の底から礼宮さまを慕っているのが、手にとるように伝わってきた。

こ れまでの皇族の方々の記者会見をふり返っても、こんな会見はまれだった。まさに異例ともいうべきもので、記者団の質問に、礼宮さまはしょっちゅう「ねえ?」と紀子さんに問いかけ、紀子さんは恥じらい気味に「ええ」とうなずいたのである。

 若いカップルの熱い恋。その熱気がそのままダイレクトに伝わってくるような雰囲気は、記者達に思わずメモをとる手を追いつかなくさせるほどだった。

 じつをいうと、この日、宮内記者会(15社)は、「会見は宮内庁で」と申し入れていたが、礼宮さまの「控えめにやりたい」とのご希望で、赤坂御所で開かれたのである。出席した記者達は、全部で32名。ほとんどが30才前後で、ベテラン記者のなかにはテレビ中継を見ながらハラハラし通しだった人もいた。

 というのも、質問内容は事前に13項目にまとめられて提出されていたが、自由インタビューになると、予定外の質問がポンポン飛び出したからだった。「お子さまは何人を?」「初恋の人ですか?」「けんかは?」……などなど。「テレビではお2人の声はハッキリ聞きとれたでしょうが、会場ではあまり聞きとれなかったんです。それでみんな身を乗り出し、お2人の緊張がとれたこともあって、双方がノってきたんです」

 とは、出席した記者のひとり。

 ベテラン記者がハラハラしたのは、このノリを感じたからで、

「このままいったら、“ファーストキスはいつでしたか?”なんて質問も出るのではないか。そうしたら大変だ。芸能人の会見ではないんだから」と思ったというのだ。

 しかし、実際はそこまでは至らなかった。

 会見の初めはコチコチに緊張していたお2人だったが、次第にほぐれ出し、後半になると、むしろ記者団の質問を楽しむ雰囲気さえうかがえたのである。とはいえ、お2人のさわやかさは終始変わらず、会見場はずっと熱気につつまれたまま、予定時間の20分を5分もオーバーして終了した。

 会見でのお2人のコメントの圧巻は、およそ次のような点だったろう。

“失礼ですが、紀子さんは礼宮さまが初恋の人なのですか?”という質問に、礼宮さまの方を向いた紀子さんは、

「申し上げてよろしいのでしょうか……」

 と、同意を求め、礼宮さまが返されたやさしい笑顔を見て、こう言ったのだった。

「はい、そうでございます」

 ちょっぴり恥ずかしそうだったが、それでもハッキリとした答え。これと同じことが、“お子さまは何人ぐらいほしいですか?”の質問のときも起こった。

 頼を染め、一瞬のとまどいを見せて、紀子さんは礼宮さまを見た。すかさず礼宮さまが、

「何人にしましょうか?」

 と助け舟を出され、紀子さんはそこで一息ついて、

「ゆっくり考えたいと思っています」

 と、答えたのである。

 終始ニコニコ、いわゆる“紀子さんスマイル”を崩さなかった紀子さんの顔が、一瞬曇ったのは、

“涙を流したようなことはございませんでしたか?”と聞かれたときだった。

「みなさん、ご存知だと思いますが、(礼宮さまが)英国にいらっしゃった日でございます」

 礼宮さまの英国留学は、若い2人の恋に試練を与えていたと知って、一瞬ハッとした記者もいた。それにしても、紀子さんがここまで素直に答えるとは、予想だにしないことだった。

 さて、最後になったが、もはや日本中で有名になってしまったお2人のプロポーズのとき。思えば、礼宮さまが20才、紀子さんがまだ19才のときである。紀子さんが学習院大に入学した昭和60年4月から約1年2ヵ月後の“電撃的プロポーズ”は、礼宮さま自身の口から次のように語られた。

「プロポーズの言葉はたしか、昭和61年の6月26日だったと思いますけれども、たしか、『私と一緒になってくれませんか?』と、そのようなことをちょっと話した記憶がございます」

 これに対して、紀子さんは、

「私は『よく考えさせていただけませんか』と申し上げました」

 と答えたのである。

 礼宮さまは、さらに言葉を続けて、こう語られた。

「場所は目白近辺。夜、集まりがございまして、私が途中まで送っていったわけです。

 ちょうど横断歩道のところで信号待ちをしている間に、ついつい長話になって、そのときです」

 礼宮さまの告白もまた、じつに素直であった。そして、こうして日付まで正確に記憶していることは、お2人の恋の真剣さをハッキリと裏付けることとなった。

 それでは、昭和62年6月26日とは、どんな日だったのだろうか?

 その日は木曜日、前日までの梅雨の雨がピタリと止み、朝から4日ぶりの太陽がジリジリと照りつけていた。東京では正午に30度を突破、最高気温は31.5度を記録し、この年初めての真夏日を記録したのだった。

 その夜、JR目白駅からさほど離れていない住宅街の一画にある小さなスナックに、お2人はいた。礼宮さまがいう「集まり」とは、自然文化研究会の仲間の集まりのことで、礼宮さまのグループはしばしば、この小さなスナツク『祢禰(ねね)』を訪れていた。

 ママの清水祢彌さんは、当時をふり返り、会見後のマスコミの取材に次のように答えている。

「あの日のことだと思うんです。

 宮さまは、12~13人のご学友といらしたんですが、10時近くになると『もう遅いから』と、紀子さんが先にお立ちになったんです。

 そのとき、『じゃ、私が送りましょう』と、宮さまが紀子さんを送っていらっしゃったんです。

 店を出るとき、お友達から『もう帰って来なくていいぞ』なんて冷やかされていました。

 それまでにも何度か、紀子さんをお宅まで送られることがありましたけど、だいたい10分か15分ほどでお戻りになっていたんです。

 だけど、その夜は、30分たっても戻られないので、本当に帰ってみえないのかしら? と思っているうちに、やっと帰ってみえたんですよ。きっと、あのときだったんですね、プロポーズされたのは」

 礼宮さまが初めて『祢禰』を訪れたのは、昭和60年11月、 学園祭の夜、大学の先生方に連れられてだったという。もともとこの『祢禰』には学習院の教授や学生達がよく出入りしていたが、礼宮さまが訪れ出すと様子が 一変した。「最初のころは警護の黒塗りの車が店の真ん前に止まって、店に入る客や通りがかりの人達に鋭い視線を投げかけるものですから、あそこはそのスジ の客が来ると評判がたち、困ったこともありましたねえ……」

 と、清水さんは笑顔で述懐する。

 しかし、外にはお守り役が控えているものの、店の中での礼宮さまは、屈託なく楽しくお酒を飲まれていたという。清水さんは、礼宮さまに常連客を紹介することもあり、そうされたときは常連客と一緒にお酒をくみ交わすこともあったという。

 教授やサークルの仲間と訪れる礼宮さまのかたわらに、いつしか“際だっておしとやかな、いまどき珍しい女性”の姿が見うけられるようになった。

 それが、川嶋紀子さんであった。

「宮さまはいつもウイスキーの水割りで、私が『このお酒がお安いし、よろしいんじゃないですか』と“マルス・ベルズ”というウイスキーをお推めしたら、ずっとそれで通されました。お店では1本3000円ですが、ご学友といらっしゃったときはいつも割り勘でした。

 お酒が入るともう普通の学生さんのコンパと同じ。宮さまは、うちのギターでいろんな曲を弾かれました。最初に弾かれたのは確か『禁じられた遊び』でした。

 紀子さんは、本当に控えめな方で、みんながワーワー騒いでいるときも、ニコニコごらんになっているんです。宮さまがギターを弾かれているときも、ニコニコしながら優しそうに見守って、そっと歌を口ずさまれる程度でした」

 しかし、清水さんはそんなお2人の様子にただならぬものを感じていた。というのも、「グループでいらっしゃると、最初、必ずお2人並んで窓際にお座りになる」からだった。

 前にも述べたが、紀子さんが学習院大学に入学したのは昭和60年4月。それから約1年後の光景がこれであった。そして、その年の6月には、もう“信号待ちでのプロポーズ”となるのだから、青春の出会いとは素晴らしい。

 礼宮さまと紀子さんが、いかに早くお互いを意識され、恋を育まれていったかは、後に詳しく述べよう。

 

◇礼宮さま、紀子さんばかりではない。

いま思い出される〈4つのロイヤル・ロマンス物語〉

 

 サークル活動とスポーツを通じて恋を育んだ礼宮さまと紀子さんだったが、他の皇族方のご結婚はどうだったのだろうか?

 婚約発表会見での紀子さんの初々しさを目の当りにしたベテラン皇室記者のひとりは、「やっぱり美智子皇后のときとダブって、胸がしめつけられる思いがしたよ」と言った。

 礼宮さまと紀子さんはお2人で会見にのぞまれたが、これはつい最近からのことで、昭和55年4月の三笠宮寛仁殿下ご夫妻のときから始まったスタイル。開かれた皇室といっても、まだまだ皇族方のご結婚は、伝統と格式のなかにある。もちろん、美智子さまのときもお1人で会見にのぞまれ、かたわらにはご両親が控えていらしたのである。

では、以下、国民の間で大きな話題を呼んだ4組のロイヤル・カップルについて、その出会いからご結婚までをふり返ってみよう。

 

◆ご成婚ブームを呼んだ“テニスコートの恋”――天皇陛下、皇后陛下の場合

 昭和32年の夏、軽井沢で行なわれた親善テニス・トーナメントが、お2人の出会いのキッカケ。

 このとき、当時の皇太子、明仁殿下の組は、混合ダブルスで正田美智子さんのペアと対戦。試合は、美智子さまの組の完勝だったが、皇太子さまの胸には負けた悔しさより、美智子さまの美しい印象が深く刻み込まれた。

 事実、それから3ヵ 月後、ある試合で美智子さまとご一緒になられた皇太子さまは、自らの手でカメラを向けられ、美智子さまの姿を写真に撮られたのだった。このときの写真は、 その年の暮れの宮内庁東宮職の展覧会に、『女性のテニス友だち』として出品され、その後、皇太子さまから美智子さまの手もとへ送られた。美智子さまは、そ の写真を額に入れ、ご自分の部屋に大切に飾られていたという。

 翌33年、この年になると皇太子さまのお妃選びが話題となり始めたが、皇太子さまは秘かに美智子さまを思い続けていた。美智子さまもこの皇太子さまの気持ちを察していたのだろう。皇太子さまが会員だった『東京ローン・テニス・クラブ』に入会、春から夏にかけて、お2人は秘かにコートでの恋を育まれたのだった。

 皇太子殿下のテニスは型通りの美しいフォーム。これに対し、美智子さまのテニスは型にはまることのないねばり強いテニス。お2人は、テニスのプレーを通じて、お互いの気持ちを確認していったといわれる。

 再びめぐってきた夏。お2人は昨年と同じように軽井沢トーナメントに出場されたが、対戦はなく、そればかりか美智子さまは皇太子さまから離れた遠くの席に座ることが多かった。皇室ウォッチャーの目を、このときから気にするようになったのである。それでも、お2人の噂は広まり、美智子さまは人目についてはいけないとの気遣いで、皇太子さまからのテニスヘの招待さえ辞退するようになった。

 しかし、昭和33年11月27日、ついにお2人はご婚約。お2人の愛はコートではなく、今度は電話によるホットラインで育まれ、この日に至ったという。

 ご成婚は翌34年4月10日、皇居内の賢所(かしこどころ)で、古式ゆかしく華やかに行なわれ、式後お2人は馬車で都内をパレードされた。このお2人のパレードを国民は大歓迎。日本人の心にまだ残っていた敗戦の暗いムードは、お2人の笑顔によって消え去る感があった。

美 智子さまは、当時の日清製粉社長の長女で、聖心女子大出身のお嬢さま。初の民間からのプリンセス誕生であり、さらにスポーツ好きで明るく清楚なプリンセス誕生とあって、日本中はいわゆる“ミッチー・ブーム”に沸いたのだった。

 

◆お見合い後わずか8日でご婚約、スピード結婚――常陸宮さま、津軽華子さまの場合

 天皇陛下の弟宮、義宮さまは、津軽華子さまと昭和39年9月30日にご結婚。常陸宮家を創設されたが、お2人の出会いはお見合いの席だった。もともと皇族の方々のご結婚は、家柄格式に合わせてお見合いが多かったが、常陸宮さまの場合は決定のあまりの速さに周囲もビックリ。

 春まだ浅い昭和39年2月20日、お2人は華子さまの実家、津軽邸からほど近い、侍従の徳川義寛邸で初めてご対面された。

 このお見合いの席でのエピソードとして有名になったのが、“おでこ事件”。

 お 見合いの席に入られた義宮さまは、まず華子さまと初対面の挨拶をかわすことになった。ところが、挨拶をして頭をあげられると、華子さまの顔があまりに近く にあり、おでことおでこがぶつかりあうほどであったというのだ。このときの義宮さまのお辞儀はあまりていねいでなかったというが、それがかえってお2人の間に初めから親しみのある雰囲気を生んだという。

 この“おでこ事件”は、お2人ともよほど印象に残ったらしく、ご婚約決定後のデートのたびにその話が出て、お2人とも大いに笑われたという。

 とはいえ、義宮さまは見かけ以上に緊張していたともいう。ふだんケーキを食べるときはボロボロとこぼしてしまわれるのを、この日の義宮さまのケーキは、ナイフで切ったようにきれいに半分だけ残っていたという。

 お見合いは正味40分ほど。ケーキに緊張の跡が残っていたとはいえ、座談上手の評判にたがわない義宮さまのリードで、華子さまは終始笑いっぱなし。大成功に終わった。

 お見合い終了後、部屋を出られて玄関までこられたとき、義宮さまは侍従に、

「まるで学校の試験みたいでしたよ」

 と、ささやかれた。

 お見合いの翌々日の22日に、天皇家から津軽家へ使者が。華子さまのご返事は、もちろん0K。義宮さまの“学校の試験”は満点で、8日後の28日には正式にご婚約決定となったのだった。

 

◆「私の選んだ人を見ていだだきたい」とサラリーマンに嫁がれたブリンセス

――清宮貴子内親王と島津久永さんの場合

 天皇陛下の妹宮、清宮貴子内親王が当時日本輸出入銀行に務めるサラリーマン、島津久永さんとご結婚なさったのは、昭和35年3月10日のことだった。お2人の結婚式は、東京・高輸の光輪閣で行なわれ、この日をもって清宮貴子内親王は島津貴子さんと呼ばれることになった。

 もともと貴子内親王は才気あふれるウイットの持ち主。島津さんとのご結婚までの皇室記者団とのやりとりは、いまでも記者達の語り草となっている。

 お2人が出会われたのは昭和34年1月19日、麻布の国際会館、当時の徳川義寛侍従がお引き合わせしたものだった。

そ して、そのほぼ1カ月後に、清宮さま満20才のお誕生日の記者会見が開かれたが、その席で、記者団からこんな質問が出された。

――理想のタイプはどんな人でいらっしゃいますか?

「私の選んだ人を見ていただきたいと思います」

 すでにこのとき、貴子さまは島津さんを、“私の選んだ人”と決めておられたという。島津さんは天皇陛下のご学友でもあり、貴子さまにとっては恋人と兄を一緒にしたような存在であったのだろう。

 記者団の質問はなおも続いた。

 貴子さまは、2、3年前から料理、生け花、英会話など花嫁修業をスタートされていたとあって、こんな質問が出た。

――お料理の方はスープ作りの段階と伺っておりますが?

「そんなことはありません。フルコースを立派にできますよ」

――お味のほどは?

「それは召しあがった人達に聞いて下さい。いちどご馳走しましょうか?」

 古い皇室記者にいわせると、貴子さんとの会見はじつに楽しかったという。

 そんなこともあってか、貴子さまは国民の間でも“おスタちゃん”という愛称で親しまれたが、この年の3月19日に婚約発表。その後は、さらに花嫁修業に励まれて、翌年、島津さんのもとに嫁がれたのであった。

 

◆“ヒゲの殿下”は幼なじみの“働くお嬢さま”とご結婚――一三笠宮寛仁さま、麻生信子さまの場合

 昭和天皇の弟宮、三笠宮崇仁殿下のご長男で、“ヒゲの殿下”として知られている寛仁さまのご結婚は、昭和55年11月7日。30才を越えられての晩婚であったが、ご伴侶に選ばれた麻生信子さまは、いかにも“ヒゲの殿下”にふさわしい方だった。

 麻生信子さまは、麻生セメント会長の三女で、故吉田茂元首相の孫娘。三笠宮家と麻生家はかねてから親しい交流があり、信子さまは寛仁さまが学習院初等科時代からの幼なじみだった。

 寛仁さまが信子さまを連れて歩かれるようになったのは、信子さまがイギリスのロスリング・ハウス・カレッジヘの留学を終えて帰国された昭和48年ごろから。当時麻生家では、外国人の賓客を招いてのパーティーが多く開かれたが、寛仁さまもよく足を運ばれ、信子さまとの会話を楽しまれたという。さらに、信子さまは長姉の嫁ぎ先である北海道の牧場に年に何度か出かけられたが、そこに乗馬好きの寛仁さまもよく訪れ、お2人でご一緒のひとときを過ごされたこともあった。

 すでに寛仁さまには、何人かのお妃候補の名前が挙がっていたが、30才を過ぎて寛仁さまは信子さまに急傾斜。ひそかに交際を深めていかれたという。事実、海外旅行に行かれたときは必ず、信子さまへのおみやげを買って帰られた。

 当時、信子さまは自宅近くの幼稚園で、週1度、子供達に英語を教えるという生活をされていたが、この点も寛仁さまは気に入ったという。常々、自分の意志で仕事を持つ女性がいいと言われていた寛仁さまにとって、信子さまは希望通りの女性だったのだ。

 かつて、皇族らしからぬ行動をすると批判の声も出た寛仁さまだったが、生涯の伴侶は意外と身近にいたのである。

 

 さ まざまなロイヤル・ロマンス。こうしてふり返ってみると、そのどれにもこれという共通項はない。礼宮さまと紀子さんがそうであるように、他の皇族の方々 も、きわめて個性的にご結婚なさっているといえる。人それぞれに個性あり、現代において最も大事なこの人間の特性は、やはり結婚という人生で最大のポイン トを大きく左右するのであろう。

 礼宮さまと紀子さんのロマンスは、その意味で、まさしく礼宮さま的であり、さらに平成という新時代にふさわしいものといえるだろう。

 

◇礼宮さまのひと目惚れで始まったキャンパスの恋の物語。

 

 出会いは大学構内の書店。

 昭和61年の正月ごろから、宮内記者団の間では川嶋紀子さんという名前がとりざたされるようになった。前年の暮れ、皇太子殿下(現天皇)ご一家が葉山御用邸で静養されていたある日のこと、礼宮さまが1人で御用邸を出られ、途中である女性と落ち合った。そして、その女性をワーゲンの助手席に乗せてドライブを楽しまれた、という話が伝わってきたからだった。

 調べてみると、その女性というのは学習院大1年生(当時)の川嶋紀子さん。父・辰彦さんは同大の教授であるという。

 いまにして思えば、すでにそのころからお2人は恋人同士であったのだろうが、当時は浩宮妃の取材が焦点で、弟君の礼宮さまのことはさほど話題にのぼっていなかった。

 しかし、それ以後聞こえてくる話、取材で集めた話は、礼宮さまの意中の人が川嶋紀子さんであるということを物語るものばかりだった。

 そんなわけで、いざお2人の婚約が決まったとき、宮内記者をはじめとして皇室関係やご学友達は、誰もがこう口をそろえたのである。

「礼宮さまには本命も対抗もなかった。紀子さんしかいなかったのだから、いずれはこうなると思っていた」

 お2人の出会いは、昭和60年春、紀子さんが大学に入って間もなくのことだったが、それを語る前に、まず礼宮さまについて語られねばならないだろう。

 礼宮さまは、従来の皇族のイメージとはずい分違うキャラクターを持ったプリンスである。金のブレスレットをされたり、口髭をはやされたり……。伝統と格式の皇室ファミリーの中にあって、どちらかというとその自由奔放ぶりが話題になることが多かった。

 お生まれは昭和40年11月30日、両陛下の二男として産声をあげられ、文仁(ふみひと)親王と名付けられた。私達国民には、この文仁親王という名前より、礼宮という名前から付けられた“アーヤ”という愛称で親しまれ、幼少時のヤンチャぶりはじつに微笑ましい印象を残したものである。

 昭和45年4月、学習院幼稚園ご入園。初・中・高等科を経て、59年4月に学習院大学法学部政治学科にご入学。つまり川嶋紀子さんは礼宮さまの1年後輩にあたる。

 昭和63年3月、大学を卒業されると、同年8月から英国オックスフォード大学セント・.ジョー ンズ・カレッジにご留学。魚類のなかでも特にナマズの研究に熱中され、御所の中でもナマズを飼われていたのは有名な話だ。こうした動物を愛する姿勢は、祖 父の昭和天皇から受け継がれたものだろうが、ナマズの研究と並行されて、山階鳥類研究所、世界自然保護基金日本委員会(WWFJ)などの総裁も務められている。

 山階鳥類研究所の所員は、「総裁就任から留学されるまでの2年間で、40回ほどお見えになりました」というほどだから、その姿勢はとても生半可なものではない。

 とはいえ、こうした真面目なお人柄にもかかわらず、どちらかといえば自由奔放なイメージの方がなぜか話題になった。

 たとえば、

「ガールフレンドは7人。お酒はもちろん、タバコも吸います。愛車はボンネットをフォードふうに改造したフォルクス・ワーゲンで、“メンズ・ノンノ”も読みます」

 といった“のびのび発言”をしばしばされるからだった。

 さらに、こんな話も伝えられると、そのイメージは増幅された。

「まだ子供っぽいというか、やんちゃな面もお持ちなんですね。留学先のロンドンで、中央官庁から派遣されている官僚の家に何の前ぶれもなく訪れて、突然『日本食を食べさせて下さい』とおやりになったそうです」

 しかし、こうした点は、礼宮さまが従来の皇族と違うというより、より現代の青年に近い素直な明るいお人柄であることのあらわれであった。先の山階鳥類研究所でも、訪問されたときは、若い所員とよくバドミントンの試合をされたという。じつに気さくなのである。

 もっとも、大学卒業アルバムには、

『酒逢知己千杯少 話不投機半句多』

 という漢詩を書かれている。

 心の通った友人同士はいくら酒を飲んでも話は尽きないが、そうでない間柄の友人はひと言ふた言話せば用が足りる。

 気さくな反面、鋭く醒めた一面もお持ちなのだった。

 さて、こうした礼宮さまが、川嶋紀子さんというある意味で現代にはまれなお嬢さんと出会われたのである。

 恋が芽生えるのも、当然だった……。

 あるご学友に言わせると、

「初めから礼宮さまは紀子さんに夢中だったんですよ。礼宮さまは大学入学と同時に“地誌研究会”を結成。さらに3年生になられて“自然文化研究会”を主宰されたんですが、紀子さんも最初に“地誌研究会”に入会。さらに礼宮さまに従うように“自然文化研究会”に入ったんですから。

 “自然文化研究会”は礼宮さまが会長、会計係が紀子さん。お2人はサークルの両輪だったわけで、まるで礼宮さまは紀子さんとの仲を深めるために、サークルを作られたようなものです」

 まあ、これはちょっとうがち過ぎな見方だが、結果から見ればその通りだった。

 礼宮さまと紀子さんの最初の出会いについては、諸説がある。

 昭和60年の春のある日、当時2年生だった礼宮さまは、大学構内の書店『成文堂学習院大店』で店長と雑談をされていた。そこへ、ひょっこりと入って来た入学間もない紀子さん。ふと、目をやる礼宮さまに、店長が、「こちらは、川嶋教授のお嬢さんです」と紹介したのがキッカケだ、という説。

「いや、殿下はそれ以前から紀子さんを知っていたはずです」

 というのは、中等科時代からの同級生。

「礼宮さまは高等科3年のときに写真部に入っていらしたんですが、そのとき写真部は、都内の有名女子高校に“美女3人の写真”をスリーサイズ付きで求めたことがあるんです。聖心とか雙葉からは断わられましたが、学習院女子部は協力してくれまして、3人の女生徒の写真が送られてきました。

 そのなかに、川嶋紀子さんが入っていたんです。

 おそらく、あのとき、礼宮さまの胸には紀子さんが焼きついたはずです」

 いずれにせよ、お2人は出会われた。

 そして、ほどなく、紀子さんは赤坂御所(当時の東宮御所)にあがるようになる。御所では、礼宮さまを主宰者とする『パレスヒルズ・クラブ』のテニスの会が、月1度、日曜日に開かれていた。

 もっとも、この会にある学友が紀子さんを誘ったことが、お2人の最初の出会いという見方もある。

「川嶋さん、今度の日曜日にテニスをしませんか?」

 という先輩の誘いに、紀子さんは即座にOK。腕のほどは自信があったから、軽い気持ちで引き受けたのだが、場所を聞いてびっくりしたという。

「えっ、東宮御所ですか? 東宮御所って、あの……」

「そう、礼宮さまのいらっしゃるところ」

 こうして昭和60年の夏前には、御所内のテニスコートで礼宮さまとペアを組む紀子さんの姿が見られるようになった。

「殿下はよほど紀子さんのことを気に入ったんですね。すぐにペアを組んでミックスダブルスをするようになり、一生懸命紀子さんをカバーしてボールを追いかけていました」

 と、ご学友のひとり。

初夏の風がわたるコートのなかを、礼宮さまと一緒に白球を追う紀子さんは、このときまだ18才。まさか6年後に、自分が礼宮さまに嫁ぐとは夢にも思っていなかっただろう。

 

◇紀子さんは“キャンパスのマドンナ”

礼宮さまはマドンナ争奪戦の恋の勝利者 

 

 礼宮さまが紀子さんを思っていること、紀子さんもまた礼宮さまに好意を寄せていることは、多くの学友達が知っていた。

 婚約発表後に各マスコミが集めたご学友達のコメントは、それを裏付けるものばかりである。

「3年ほど前からは、宮さまと紀子さんがお親しいことはみんな知っておりましたから、今度のご婚約のニュースには驚きませんでした」と、宮さまとは初等科以来の同級生の富永美保さんは『週刊現代』平成元年9月16日号で語っている。この富永さんの声が代表していると思われるが、他にも次のような証言がある。

「宮さまの好きな方が川嶋さんだと週刊誌に出たころ(昭和61年9月 ごろ)、研究会のみんなは『なるほど、そうだろうなあ』と思ったんですが、紀子さんがどういうふうかわからなかったので……。学習院のある目白近辺だと か、東宮御所でお酒を飲むときに私はよく誘われて行きましたが、紀子さんは(宮さまに対して)普通のお友達みたいな感じでした。どちらかというと宮さまの 方が親しみを持っていたようです。紀子さんをそばに呼んだりして」

 と言うのは、礼宮さまのご学友の三浦久和さん(『サンデー毎日』平成元年9月10日号)

 礼宮さまは、紀子さんを、

「キコちゃん」

 と親しげに呼び、紀子さんは、

「殿下」

 と応えていたという。

 お2人の愛を育んだ自然文化研究会は、大学から予算の出るクラブと違い、学内に部屋もない任意団体。学習院のほか、慶応、上智、東大など他大学の学生も参加する、のびやかな集まりだった。

 サークルの恒例行事は、年に数度の旅行。たいてい3泊4日のスケジュールで、民宿にも泊るという素朴な旅行で、こうした活動を通してもお2人の交際ぶりは仲間に広く知れ渡っていった。

 紀子さんの父・辰彦氏も、もちろん、自分の娘のことは知っていた。婚約後の会見で、辰彦氏は静かな口調で、当時の親としての心境をこう振り返っている。

「紀子が大学に入って1年のとき、かなりたってから、サークルの友達の中のお付き合いとして、礼宮さまと交際申し上げているというところで、知っておりました。

 若いときにサークルを通じて人の輪を広く築いていくことは大変よい機会だと思いました。その観点から、私の子供の青春の1ページとして貴重な経験ではなかったかと思いました」

 貴重な青春の1ページ。

 まさにその通りのキャンパスの恋ではあったが、周囲の思惑とは別のところで、2人の恋は小さな障害を乗り越えていく。

 それは、紀子さんが男子学生にとって、まさにマドンナ的存在であったからだ。“キャンパスの華”紀子さんに思いを寄せたのは、ひとり礼宮さまだけではなかったのである。

 展開された紀子さん争奪戦。

 これについては、2つの女性誌に、こんな秘話エピソードがとりあげられている。

 まず、『週刊女性』平成元年10月3日号によると、自然文化研究会の旅先の出来事として、礼宮さまとメンバーAくんの間で紀子さんをめぐっての争いがあったという。あるメンバーは次のように語っている。

「メンバーのAくんも紀子さんに好意を寄せていて、2人ですでにデートしたこともあったんです。そのことをうすうす礼宮さまもご存知だったんでしょう。みんなの前で、紀子さんへの“アタック宣言”をなさったんです」

 礼宮さまは、

「キコちゃんはオレがとるぞ」

 と言われ、Aくんは、

「とれるものならとってみろ」

 と、応じたという。

 2人ともお酒が入っていたせいもあったが、その後男性メンバー達のアタック宣言はさらに増え続けたという。

 続いては『女性自身』平成元年9月19日号。礼宮さまは、なんと2度も、紀子さんをめぐって恋仇の学友Aくんとやり合ったというのだ。Aくんは、もともと東宮御所のテニスの会に紀子さんを連れてきた張本人で、マイカーにさっそうと紀子さんを乗せているのを見て、礼宮さまは嫉妬される。メンバーBくんの証言によると、

「殿下が運転免許を取って、黄色のワーゲンを買ったのはそれから間もなくですよ。テニスの後、紀子ちゃんを御所へ誘って、ワーゲンに乗せて行くんです。Aくんは面白くなくなって……」

 紀子さんが2年生になった秋、御所内でソフトボール大会があり、その席でついに礼宮さまとAくんの火花は散った。

「殿下とAくんが大喧嘩を始めましてね。胸ぐらをつかまんばかりの見幕で、殿下が“キコはボクのものだ!”と言い放ったのを、何人かが聞いているはずです。

 その直後にも斑尾(まだらお)高原ヘスキーに行ったとき、また殿下とAくんがやりましてね。

 若気のいたりというか。しかし、ひとりの女性をめぐって男同士が対決する。これも青春のいい思い出かもしれません」

 こうした青春のページを重ねて、礼宮さまは恋の勝利者となっていったのだろうか?

 紀子さんのマドンナぶりについては、さらにもっと意義深いエピソードがある。それは、昭和62年の秋、紀子さんが参加した『第14回東南アジア青年の船』での約2ヵ月間である。紀子さんは、すでに高校時代から各種のボランティア活動に参加しており、このときは、アジアヘの関心をさらに深めようと積極的にメンバーに加わった。思えば礼宮さまもナマズの研究で2度タイを訪問されており、そうした礼宮さまの行動に触発された結果かもしれない。

『東南アジア青年の船』は総務庁が毎年実施し、その目的は東南アジアと日本の青年達の相互理解を深めることにある。日本の他、インドネシア、タイ、ブルネイ、フィリピン、シンガポールの6カ国が参加、計245名の青年が選ばれて『にっぽん丸』に乗船し、参加各国を訪問をした。参加メンバーは、男女ほぼ半々だったが……。

「船の中で紀子さんはマドンナ的存在でした。特に男性は紀子さんの気を魅こうと、何かにつけて張り合っていました。交際を申し込んだ男性も多かった」

 と、いうのは参加者の男性の1人。

 紀子さんは乗船すると、たちまち人気者となったのである。

 礼儀正しい挨拶。積極的な行事参加。正しいエレガントな英語。どれをとっても非の打ちどころがないのだから、当然といえば当然だった。

 民族文化の発表会で参加者が少ないと、ロビーで演説(もちろん英語で)をして参加者を募り、病人が出ると船室を訪ねて励ました。午前7時からは甲板を端から端までジョギングをして、いつしかそのジョギングに10数人の男性が参加するようになった。日本のアトラクションの日には、あでやかな振り袖姿になって琴を演奏したという。

 このときの紀子さんの同室者は、フィリピン女性のライラ・タンナゴンさんだったが、彼女は『週刊ポスト』誌の記者のインタビューに応じている(平成元年11月10日号)。

 マニラを訪れた記者にライラさんは、「やっぱり紀子は皇室の人間と結婚するのね」と念を押し、次のように語っている。

「紀 子がロイヤルファミリーのメンバーと交際しているということは船内の噂でなんとなく知っていました。最初、紀子は“結婚するなら、白いピアノと黒い馬をプ レゼントしてくれる人がいい”と言っていたんだけど、そのうち、日本人参加者から“彼女は日本のプリンスと結婚するんだ”と教えられたの。そのことを紀子 に聞くと、“私にはボーイフレンドがいるのよ”とは言ったんだけど、最後まで、天皇の孫と結婚するとは言わなかったわ。ただ、笑っていただけ。その笑い方 もすごく可愛かった」

 このライラさん以外にも、何人かのフィリピン人の参加者に『ポスト』誌の記者はインタビューしている。そして、インタビューを受けたすべての人間が、紀子さんの素晴らしさとモテモテぶりを証言している。

 しかし、すでに紀子さんは礼宮さまのものであったのだ。それは紀子さんが、英語で“私にはボーイフレンドがいるのよ”と言ったことに象徴されている。英語のボーイフレンドは日本語と違って、たった1人のステディな男性をさすのである。

 礼宮さまは、こうして紀子さんとの恋の勝利者となったのである。

 

◇愛車ワーゲンの助手席に紀子さんを乗せドライブ・デート。

葉山の海で初めて両陛下とご対面を!

 

「柳行李ひとつでいいんです。後のことは僕に任せて下さい。2人できっと障壁を乗り越えられます。どうぞ、あなたも勇気を出して下さい」

 そ う言って天皇陛下は、美智子皇后にプロポーズしたという。平民出身の初めてのプリンセスはこうして生まれたわけだが、その子、礼宮さまが、母の歴史をご存 知ないわけがない。両陛下が常に心がけてこられた“開かれた皇室”は、キャンパスの恋をする礼宮さまに大いなる勇気を与え続けた。

 むしろ、悩みに悩んだのは紀子さんの方ではなかったかという見方がある。いかに礼宮さまに好意をもたれているとはいえ、1人の女性としてその愛を受け入れることは、大きな障害に立ち向かうことでもある。

“お妃には旧皇族か旧華族”

 という声は、どんなに時代が変わろうと必ず起こるであろうし、また、皇室とは普通の人間にとっては、やはり別世界でもある。

 しかし、礼宮さまは、そうした紀子さんの悩みに早くから気づかれていたようだ。

「礼宮さまは非常に演出の上手な方だと思いました」

 と言うのは、元東宮侍従の浜尾実さんである。

 浜尾氏がそう感じたのは、お2人の初デートともいわれる葉山の海岸での出来事があったからである。

 昭和60年12月28日のことだ。

「その日、殿下は両陛下や皇太子殿下とご一緒に葉山の御用邸に行っておられた。たまたま川嶋家も近くのホテルに滞在中で、それを知っていた殿下がホテルに電話をかけ、車で紀子さんを迎えに行ったんです。

 2人は葉山の海岸でデートされたんです。

 と、ちょうどそのころ両陛下もその辺を散歩されていて、2組はそこをすれ違う形になった。

 私は、これはけっして偶然ではなく、すべて殿下の演出だったと思いますね」

 湘南の海は穏やかで、冬の太陽を照り返していた。礼宮さまと紀子さんは肩を並べて、砂浜を歩いていた。

 そのとき、2人の前方から小さなふたつの人影が近づいてきた。

 おそらく、礼宮さまは紀子さんに、目で合図を送ったに違いない。ふたつの影は午前の散策を楽しまれる両陛下だった。

「お早うございます」

 と、ご両親に挨拶をする礼宮さまの脇で、紀子さんも深々と頭を下げたのである。

 年頃を迎えた息子が、さりげなく連れてきたやはり年頃のお嬢さん。清楚で控え目で、息子にはぴったりかもしれない。このときの両陛下は、おそらく世の普通の親と同じ思いで若きお2人を眺められたことだろう。

 両陛下はその後、油壼のホテルで昼食をとられたとき、2人をお呼びになり、特に美智子さまは2人のために特別に席を用意させたという。

 この葉山でのデート以後、礼宮さまと紀子さんの距離は急速に縮まっていく。もちろん、紀子さんと皇室との距離も。紀子さんが東宮御所を訪れる機会が増え、礼宮さまの愛車ワーゲンの助手席に乗ることも多くなった。

 浜尾氏によれば、

「62年頃には、結婚相手として本格的に交際するようになったようです。その頃、天皇ご夫妻に打ち明けています。

 デートは東宮御所内がほとんどで、初めのうちは複数の友人を呼んでお茶を飲んだりしていました、そのうち、紀子さん1人で御所に上がるようにもなりました。

 御所では、門の所で皇宮警察が1人1人出入りをチェックしていますが、その警官などは『ヘンだなア』と感じたようです。

 礼宮さまの書斎に入られたこともありますし、2人だけで応接間にずっとおられたこともありました。2人だけでお会いになるなんてことは、普通ではあり得ないことなんですよ。63年の春頃には、もう完全に結婚を前提としたお付き合いを許されていたようです」

 もちろん、お2人は御所以外でも交際を深めていった。大学近くの喫茶店で、仲よくティータイムのお喋りを楽しんだり、仲間を交えてスナックなどでお酒を飲んだりした。

 しかし、やはりなによりもお2人の仲を深めていったのは、自然文化研究会が主催した数々の旅行だった。

 昭和63年の3月、サークルのメンバー達は木曽路、伊那方面に3泊4日の旅に出た。一行が1泊2500円の妻籠の民宿『つたむら屋』という民宿に泊った夜のことであった。

 ワラぶき屋根の下、囲炉裏を囲んでイワナの骨酒を汲み交わし、全員がホロ酔い加減になったころ……。

「あれっ、2人がいない」

 と、誰かが言った。

 2人とは、もちろん、礼宮さまと紀子さんである。

 会の顧問である高橋新太郎・学習院女子短大教授が、こう証言する。

「酔いがまわってくると、屋外に新鮮な空気を吸いに出る者もあります。三々五々、外に出た中に彼等2人もいた。外で話し合う時間を持ったようです」

 このときの礼宮さまは、半年後の英国留学を控えていた。ロンドンヘ行ってしまえば、2人はしばらく会えなくなる。そんな思いが2人の胸にはあったのだろうか。

 “星空を見上げてのプロポーズ”と、婚約直後に書いたマスコミもあったが、プロポーズはそれ以前に礼宮さまが告白されていたので、そこまでは切迫した光景ではなかった。しかし、雪明りの中での2人のシルエットは、まさに将来を誓い合う恋人のそれではなかったろうか。

 もはや揺ぎのないものとなったお2人の恋心。礼宮さまは、英国留学を目前にしたその年の7月に、テニスの会『パレスヒルズ』のメンバー織田和雄氏(㈱ワリスコ常務)にこう打ち明けた。

「織田さん、ちょっと相談があります。じつは僕、川嶋紀子ちゃんと結婚するんです」

 これを聞いた織田氏は、

「非常に真剣な表情でした。私も『わかりました』とだけお答えしましたが、礼宮さまは胸の内を明かされてホッとされたご様子で、私もまた胸が熱くなりましたね」

 と言う。

 じつをいえば、織田氏は天皇、皇后ご婚約の直前にも、恋のキューピッド役を務めたことがある。アムステルダム五輪三段跳び金メダルの織田幹雄氏の次男である織田氏は、陛下とは学習院時代の2年後輩という間柄で、当時陛下の電話を美智子さまにまわすという役目を引き受けたのだった。

「まさか親子二代の恋のメッセンジャー役をするとは……。そう言われるだけでも面はゆい」

 と、織田氏。

 ともあれ礼宮さまは、織田氏に打ち明け、固い決意を胸に秘めて英国へと旅立って行った。海を隔てても確かな愛で、礼宮さまと紀子さんは結ばれ続けたのだった。

しかし、お2人の結婚には、まだ越えなければならない障害が待ち受けていた。

 

◇初めて離れ離れに!

紀子さんが”涙を流す”ほどつらかった礼宮さまの英国留学

 

 さて、ここでもう1度、お2人の婚約記者会見に戻って、紀子さんの言葉を思い起こしてみよう。“涙を流したようなことはございましたか?”という記者団の質問に、紀子さんは、

「みなさん、ご存知だと思いますが、(礼宮さまが)英国にいらっしゃった日でございます」

 と、答えている。

 キャンパスの恋は、2人だけの情熱をぶつけあったときを過ぎると、恋の将来に不安が散見するようになったのである。果して自分達の恋は成就するのだろうか? ――そう考えない恋人達はいないだろう。しかし、ひとたびそれを考え始めると、お2人の間にはいくつかの障害が立ちはだかっていたのである。

 礼宮さまが、英国のオックスフォード大学セント・ジョーンズ・カレッジに留学されたのは、昭和63年8月7日のことだった。お2人の恋がスタートしてすでに3年余りの月日がたっていたが、このとき、お2人は初めて離れ離れになるのだ。

 自然文化研究会での数々の旅行、休日のテニス、そして御所でのデート……。恋の初めの情熱の日々は過ぎ、いま、お2人は次のステップヘと恋を進めなければならないときにきていた。すでに、お2人の仲は皇室関係者、ご学友達の間では周知のこととなり、さらに、マスコミを通じて世間にも知られていたことも、お2人の悩みをより一層深めたに違いない。

 思えば、お2人の姿が目白のスナック『祢禰』で見られるようになってからしばらくした昭和61年の秋には、川嶋紀子さんの名はマスコミによって報道されているのである。『週刊現代』の昭和61年9月13日号は、“本命は学習院大教授の娘!?”という記事を掲載、さらに写真誌『FOCUS』昭和61年10月24日号は、なんと『祢禰』の店内でのお2人のツーショットを掲載したのである。

 当時、礼宮さまからはすでにプロポーズ(昭和61年6月26日)を受けていたとはいえ、紀子さん自身はそのことを小さな胸にシッカリとしまいこんで置かなければならなかった。

「礼宮さまですか。とてもユニークなクラブの先輩だと思います。礼宮さまは他の女性の方々と同じように私のことを『川嶋さん』とお呼びになります。私は『礼宮さま』とお呼びしています」

「礼宮さまのおヒゲは、お似合いになるとおっしゃる方もいますし、まだ早いとおっしゃる方もいます……」

 と、紀子さんは訪れる記者の質問に、はにかみながら答えている。紀子さんの気の遣い方、さらに礼宮さまの紀子さんを心配するお気持ちはいかばかりだったろう。

 もう、これは有名になったが、昭和62年3月の斑尾高原のスキー旅行では、お2人はけっしてツーショットになられなかった。あのとき、礼宮さまは他の女子学生とはかわるがわるペアリフトに乗られたのに、紀子さんとはけっして一緒に乗られなかったのだ。

 ともあれ、こうしてお2人の仲は3年を経て、マスコミ側は“もしかして兄の浩宮さまより先にご成婚かも”という観測記事を書くまでになっていた。お2人にとってなんらかの結論を出す日は近づきつつあったといえよう。

 しかし、恋のそうした発展とは別に、礼宮さまのプリンスとしてのスケジュール、英国留学の日はやって来たのだった。

 紀子さんが“涙を流す”ほど辛かったというその日より2週間ほど前、7月27日、『祢禰』ではこんな光景が見られた。

 午後6時頃から、自然文化研究会のメンバーを中心に25、26人の学生達が『祢禰』にやって来た。もちろん、そのなかには礼宮さまと紀子さんの姿があった。英国留学を控えた礼宮さまの“壮行会”をメンバー達は企画したのだ。すでに、カップルとして扱われているお2人は、いつも通りに窓際の席についた。

 宴は当初から和気藹々の雰囲気。礼宮さまを中心に自然文化研究会の活動の思い出話に華が咲いていたが、8時すぎになって、突然、思わぬ人が店に入ってきたのである。

 まったくなんの前ぶれもなかっただけに、メンバー全員が驚いた。思わぬ人とは、礼宮さまの兄、浩宮さまだったのである。

「一瞬店内はシーンとなりましたが、すぐに礼宮さまと紀子さんが席を譲って、浩宮さまが席につかれました。そのせいでお2人は離れ離れになったんです。浩宮さまは、『きょうは礼宮のためにみなさん集まって下さって、ありがとうございます』と挨拶され、それからは前よりも宴はぐっともり上がりました」

 と、出席したメンバーのひとり。

 浩宮さまは30分ほどで帰られたが、その後の店内で紀子さんがとった行動を、このメンバーの1人はよく覚えている。

 浩宮さまのご登場で礼宮さまと離れた紀子さんは、礼宮さまが店の奥でギターを弾き、『夢の中へ』を歌うのを、カウンター席でながめていた。もちろん、いつものスマイルは絶やさなかったが、その顔にはふと寂しげな翳りが浮かぶことがあったのだ。

「どうされたの?」

 と、ママさんが尋ねると、

「いえ別に」と言いながら、紀子さんは席を立ち、

「ママさん、私にも氷を割らせていただけませんか」

 と、申し出たのである。

 ママさんは喜んで申し出に応じ、紀子さんはカウンターの中に入ると、右手にアイスピックを持った。ママさんの心配をよそに、紀子さんはアイスピックで氷を割っていく。

(紀子さんがあんなことを?)

 おそらく紀子さんの様子を心配されたのだろう。いつのまにかギターを置いた礼宮さまは、カウンター席のそばに来ていた。

「紀子さん、大丈夫なの?」

 と聞かれる礼宮さまに、

「ええ」

 と答え、それから紀子さんはこう言った。

「いま、礼宮さまに氷を割ってさしあげます」

 紀子さんは慣れない手つきで、礼宮さまのグラスに割った氷を入れ、それを礼宮さまは満足そうに口に運んだのだという……。

 離れ離れになる恋人達。

 紀子さんと仲がよかった同級生によると、礼宮さまが英国に発たれた日、紀子さんはたった1人で成田空港まで見送りに行ったという。

 そして、礼宮さまがいなくなられてから、紀子さんはよく、

「宮さまがいらっしゃらないと寂しいわね」

 と、呟くようになったという。

 ふたたびご婚約会見での紀子さんの言葉に戻ってみると、この時期の紀子さんの辛さがよくわかる。ご婚約後、ふたたび英国に戻る礼宮さまについて質問が出たとき、紀子さんはこう言った。

「心に通じ合うものがございましても、距離が離れますと、やはり寂しいものでございます。

お発ちになる日は、しんみりと涙を流すことになるのではないかと思いながらも、笑顔でご出発を送りたいと思っておりますが……」

 婚約後でさえこうである。

 まだ2人の恋の未来が見えなかった時期なら、なおさら辛かっただろう。おそらく紀子さんは成田空港で、1人涙を流したに違いない。紀子さんのつらさは礼宮さまの辛さでもある。

 そして、この辛さがお2人の恋心をより一層強くし、礼宮さまの固い決意となるのだ。

 皇室離脱さえ辞さない――礼宮さまの心にそんな思いが芽生えても無理はなかった。

 

◇皇室離脱を賭けた恋。

“結婚できないのなら皇室を離れる。紀子を連れていってイギリスで一緒に暮らす”

 

 礼宮さまと紀子さんのご婚約がスクープされたとき、宮内記者のほとんどが「まさかこんな早く」と思い、その思いとともにひとつの事を思い出さざるをえなかった。

 そ のひとつの事というのが、『皇籍離脱』問題。昭和天皇が崩御されたばかりの平成元年の春、突如としてこの問題が報道されたときは、あの礼宮さまのことだか らそんなお考えもあろうぐらいにしか受け止められなかったが、いまにして思えば、それは紀子さんとのご結婚問題と表裏一体のものだったのだ。

 皇 室離脱問題とは、礼宮さまがそうした希望を持っている。いや、希望というより、そうしてもかまわないと考えていらっしゃるというもので、もちろん、単なる 噂にすぎなかった。しかし、この噂には真実味があった。いわく、“礼宮さまは兄の浩宮さまに比べて同じ兄弟なのになぜこんなに待遇に違いがあるのか、と不 満を抱いている”。いわく“皇室という古い伝統と格式のなかにいては自由な活動ができない、と考えていらっしゃる”という話で、ハタから見れば実に的を得 ているのだ。

 しかし、皇族という地位を捨てて民間人になることは、望むのはご自由でも、現実的に承認されることはあり得ない。

 ならば、なぜこんな非現実的な話が、噂にせよ立ったのだろう?

「じつをいうと、あの話は噂という程度のものではなかったんです。礼宮さまが『普通の人に生まれたかった』と酔ってこぼされるのを、確かに聞いた人もいるんです」

 とは、ある皇室ジャーナリスト。

 この話で、もう思い当ると思うが、礼宮さまは宮中内部で、紀子さんとのご結婚に反対されていたようなのである。英国留学に発たれる前、すでにその胸中を両陛下に打ち明けていたといわれるから、両陛下もかなり悩まれたという。

 紀子さんとの結婚。それを反対する宮中内部の理由とは、おおまかにいって2つあった。

 ひ とつは、「お妃になられる方は格式あるお家の方が望ましい」という考え方、つまり、家柄の問題で、それまでの皇太子妃選びのなかでも「旧皇族か旧華族がふ さわしい」という声が圧倒的だった。とすれば、川嶋家はこれに該当しない。それどころか美智子皇后のご実家と比べても、川嶋家は財力などの点で確かに劣る のだ。川嶋家は学習院大学の官舎となっている家賃3万3000円の3LDK住まい。紀子さんは、ごく普通の“団地のお嬢さん”にすぎないのだ。

「美智子さまが皇室にお嫁入りになさったときのお道具は、6トン積みのトラックで3台分。今のお金にすれば3億円は下らなかったでしょう。お金持ちのご実家・正田家でも精いっぱいのお支度だったんですよ。

3LDKの川嶋家が果してそこまでできるでしょうか」

 という女官の声を、若き殿下が聞かなかったとはいいきれない。

 反 対の声のもうひとつは、「兄宮より先にご結婚するのは好ましくない」というものだった。もちろん、皇室には兄より先に弟が結婚してはならないという決まり はない。現に、高円宮さまも兄宮の桂宮さまより早くご結婚されている。しかし、現実を見れば、昭和天皇が崩御されたばかりの喪中とあっては、「なにもそこ まで急がれなくても」という声が強かったという。

 礼宮さまは、おそらく悩みに悩んだ。そして、やはり、すべての反対を押し切る道を選んだのである。

 礼宮さまが英国留学に旅立たれてからというもの、紀子さんも元気をなくしていた。キャンパスの道を1人でぼんやりと歩きながら、はるか英国の礼宮さまを思えば、将来への不安が胸をよぎる。紀子さんは、すでに大学も最終学年になっていた。

「私、このまま大学院へ進もうと思っているの」

 と卒業後のことを聞いた同級生に、この頃、紀子さんは答えていた。

(皇室の伝統的考え方よりも、愛を)と、礼宮さまは決意した。おそらく最も常識的かつ最善の結論を出されたのである。

 こうして、『皇室離脱』発言は起こった。

 礼宮さまは、当初反対された人々に向かって、

「結婚できないのなら皇室を離れます。紀子を連れていってイギリスで一緒に暮らす」

 とまで言ったという。

 日本の皇室は、イギリスの王家を手本にしているといわれるが、そのイギリスにもこんな例がある。王位継承権を持っていたウィンザー公が、突如としてアメリカの2度の離婚歴のある女性、シンプソン夫人と結婚したのは、約50年 前。イギリス国民は最初驚き、「なぜウィンザー公は王位を捨てるのか」と批判した。しかし、ウィンザー公はすべての声を無視し、王位を捨てた。一途な愛を 貫くことの方が王位より価値のあることと、ウィンザー公は考えたのである。その考え方がわかったとき、イギリス国民は、今度は喝采を送ってウィンザー公を 賛えたのだった。

 礼宮さまも、この道を選ぼうとしたのであろう。

「礼宮さまの態度は一種の賭けといってもいいでしょう。しかし、その情熱は陛下と皇后さまを動かした。両陛下は、伝統的な考えより、むしろこれ以上交際が長びいて破談にならない方がよい、とご判断されたようです」

 と、宮内庁関係者。

 まさに“皇室離脱を賭けた恋”は、こうして成就することになる。

 平成1年の夏ごろには、両陛下の意志も固まり、紀子さんの両親を宮中に招かれることになった。

「もちろん、川嶋家では最後の最後まで“格式が違いすぎる”と固辞されたといいます。

しかし、そうした慎み深さに打たれた両陛下は、すべては若い2人のためと説得されたようです」

 と、宮内庁関係者。

 平成1年8月25日午後4時すぎ、紀子さんの父、川嶋辰彦氏と和代夫人は目白の官舎を正装して出た。茶色のスーツ姿の辰彦氏と水色のスーツ姿の和代さんの緊張をほぐすように、4階のベランダから紀子さんの声が響いた。

「行ってらっしゃいませ」

 両親が向かうのは、赤坂御所。とうとう両陛下から正式にお招きをうけたのである。

 両陛下はこう決断されていた。

「納采(結納)は喪明けでなければいけないが、婚約を決める皇室会議は喪中でもいいのではないか」

 キャンパスで芽生えた恋は、こうして、4年の月日を経て実を結んだのだった。

 

 

Part 4:“3LDKのプリンセス”紀子さんに学ぶ――お嬢さま学

 

 古き良き日本女性、だれもが現代には珍しいタイプと感じた紀子さんは、どのようにして“お嬢さま”となったのか。紀子さんから学ばなければいけないことは、こんなに沢山ある!

 

◇いつも笑顔を絶やさずに!

 紀子さんスマイルの秘密を発見。

 

 平成2年のゴールデン・ウィーク、紀子さんは6泊7日の独身最後の旅行をした。

《嫁ぐ日までの残り少ない日々を家族と一緒に静かに大自然の中で》

 という希望で選ばれた地は、長野県、白馬山麓の栂池(つがいけ)高原。

 高原にはまだ残雪があり、遅い春にタンポポ、すみれ、水芭蕉などが咲き誇るなか、紀子さんはあの笑顔を絶やさずに歩いた。

 とりまく50人ほどのマスコミ陣、カメラマン、そして大勢の観光客。静かな高原にときならぬ大フィーバーが起こったが、紀子さんは少しも動ぜず、終始笑顔を崩さなかった。

 紀子さんの魅力。

 それは、その笑顔にあるといっていいだろう。

 紀子さんスマイル。だれが言い始めたのか、ご婚約以来、日本中がこのスマイルの虜になった感がある。

 ひ と口に笑顔といってもいろいろあるが、紀子さんの場合、「さわやか」という言葉がまさにピッタリと当てはまる。ある評論家など、「これほど笑顔が美しい女 性がいたのかと思いました。こうしたさわやかな笑顔は、もう現代の日本女性には失われてしまったと思っていました」とまで評したくらいの笑顔である。

 思えば、紀子さんの取材に何度も足を運んだが、ただの1度 も不快な思いを味わったことがない。取材に歩きまわるのが記者の宿命とはいえ、やはりその対象によっては不快感を持つこともある。しかし、紀子さんの場合 それは一切なかった。あるカメラマンにいわせると「紀子さんは被写体としてじつに撮りやすい女性。カメラを向けてもイヤな顔ひとつしないから、シャッター を素直に押せる」とのことで、やはり、すべての理由は、あの笑顔にあるといえるのだ。

 現代はお嬢さまブームであるという。

 しかし、本当の意味でお嬢さまといえる女性は少ない。逆にいえば、少ないからこそお嬢さまブームが起こるので、そんななかで紀子さんが登場したことは、じつに意義のあることではなかっただろうか。

 それは、紀子さんがある意味で庶民でもあるからだ。いくら金持ちの家に生まれようと、いくら高度な教育を受けようと、真のお嬢さまにはなれないことを、紀子さんはあの笑顔で教えてくれるのだ。

 笑顔が美しい女性。

 本物のお嬢さまだけが持ちえる“さわやかな笑顔”の秘密を知ったのは、紀子さんフィーバーが起こってまもなくだった。

 平成1年9月9日、ご婚約発表を3日後に控えた紀子さんは、午前中、美容室に行き、午後、赤坂御所に上がられた。もうなにをするにもマスコミのカメラがマークするなかでの行動だったが、紀子さんは臆するところなどひとつも見せず、あのはにかんだような笑顔を絶やさず、てきぱきと事を進めていく。

 この日、御所の後は、草月会館で行なわれた『第6回チター音楽祭』を鑑賞するスケジュールになっていて、マスコミ陣は、御所から青山通りを隔てた会館前に待機していた。紀子さんが来たら、すぐカメラのシャッターを切れるよう、カメラマン達は会館前にいた。

 草月会館はいくら御所の近所にあるとはいえ、紀子さんはおそらく車で会場前に着く。そうすれば係員が誘導し、さっと会場内に入っていってしまうから、シャッターチャンスはほんの一瞬だろうと、そう誰もが思っていた。

 しかし、紀子さんは、なんと徒歩でやって来たのである。会館前には入場を持つ人々の列が出来ていたが、紀子さんはゆっくりとそれに近づき、列の最後尾についたのだ。しかも、列の人々に、

「どうもお騒がせして申し訳ありません」

 と、キチンと挨拶して、頭を下げたのである。

 このとき、紀子さんの顔には、あのはにかむような微笑みが浮かんでいた。そして、その微笑みは、それまでのどの笑顔よりも、輝く秋の日差しのなかでさわやかな印象を与えた。

 そう、笑顔なら、誰しもできる。笑顔だけは、すべての人間共通の財産である。しかし、私達はいかにその財産を使っていないかを、このときの紀子さんの笑顔は改めて思い起こさせてくれたのだ。

 川嶋家のモットーは、“オールウェイズ・スマイル”だという。これは、父、辰彦氏の信念でもあり、紀子さん自身もこれを受け継ぎ、友人達への手紙にも“Always smile”とよく書いた。川嶋家では、どんなささいなことを決めるにも家族全員で話し合い、「全員一致で決めた」ということを非常に大事にするという。普通の家庭にみられるような親の強権発動などは一切なく、特に子供達が15才を越えてからは、家族はよく話し合ったという。

 思えば、川嶋一家は、外国生活を長く経験している。紀子さん自身も、最初はアメリカ、次はオーストリアと、米欧2つの異文化のなかで幼少期を過ごしている。こうした異文化のなかで暮らした体験が、川嶋家にあのスマイルをもたらしているのだろう。言葉も文化も違う人々が、お互いの意志を確認できるのは、動物にはない笑顔という行為だけである。

 笑顔こそ、人間だけが持つ万国共通のパスポートなのである。

 紀子さんを評して“芯が強い”とよくいわれる。帰国子女として、日本語ができなかったときも、紀子さんはその芯の強さで乗り越えてきている。しかし、その芯の強さは、いつも笑顔の奥に隠されてきたのだ。

オールウェイズ・スマイル。

 私達がまず紀子さんから学ばなければいけないのは、この笑顔の大切さである。

 

◇学習院女子部の“お嬢さま”教育。

当り前のことを当り前にできる女性が、現代では希少価値

 紀子さんを評した数あるコメントのなかで、こんなものがあった。

「小津安二郎監督の作品に登場する良家のお嬢さんという感じ」

 なるほど、そう言われれば、その通り。紀子さんを見るたびに感じた“今どき珍しいタイプ”というのは、このことなのかと思った。

 おそらく、中年以上の日本男性は、みな紀子さんに心の安らぎを覚えていることだろう。小津作品に登場するお嬢さんとは、次のようなタイプだ。

 どこか品がよくて、情緒があって、そのうえしとやか。しかも、お行儀がいい。けっして出しゃばらないけれど、消極的ではなく、健康美人。自分の分をわきまえている。

 要するに、ひと言でいえば、好感の持てるタイプである。

 紀子さんには、まさに、このすべてが備わっていた。

 では、どうして紀子さんのような女性が現代の日本に育ったのだろうか?

 それは、やはり、教育のせいといわなければならないだろう。

 もちろん、川嶋家の教育方針もある。しかし、そのうえに学校教育が加味されなければ、お嬢さまは誕生しない。とすれば、やはり、それは紀子さんが通った学習院女子部の伝統のなかに“お嬢さま教育”があったのだ。

 現 代の日本の教育は、偏差値重視にはしるあまり、教育のこうした側面をほとんど放棄してしまっている。お行儀、マナー、教養こそ社会生活に不可欠なのに、教 えているのは受験テクニックだけ。いくらお金をかけ時間を費やしても、そこから生まれてくるのが入試に強い生徒だけでは、教育は無意味である。

 ところが、いまでも一部の私学は、日本杜会のこのよき伝統を守り続けている。おそらく、その代表的な例が学習院女子部であろう。

「ごきげんよう」

 学習院女子部の卒業生達は、いつもこう言って挨拶するという。

 現代の若い女性達のように「じゃあね」「バイバイ」「サイナラ」などとはけっして言わない。

 紀子さんのストーリーでも触れたが、紀子さんは、高等科の国語表現で、こうした言葉遣いをしっかりと身につけている。まさか、いつも「じゃあね」などと言っている女性を、皇室がお妃にむかえるわけがないのだ。

 学習院の伝統教育は、古く江戸時代にさかのぼり、小笠原家の礼法をとり入れた点にある。

 礼法、作法といえば小笠原家という小笠原一族は、代々の幕府に仕え、旗本に武家の礼法を伝授する家だった。ひと口に礼法といっても64の教儀があり、日常の作法はその64番目。お茶やお花、香道にはじまり、冠婚葬祭、訪問、食事の作法まで、日常のありとあらゆることが含まれている。この小笠原家の第28代・小笠原清務が明治16年に著わした『新撰立礼』は、当時としては画期的なマナーの本で、まだ洋式の生活が一般化しなかった時代に、園遊会、舞踏会、晩餐会、お茶会などの礼法を網羅していた。

 女子学習院は、この本をさっそく教科書に採用、当時としては時代の先端をいく教育を施したのだった。そして、現代、これらの伝統は続いている。

 小笠原礼法といっても、それは何も特別なものではなく、いちばんの教えは“進退中度”、つまり、すべてに決まりがあるということ。丸い物には丸いなりに、四角い物は四角いなりに……と、すべての物には適した扱い方があり、それをわきまえるのが礼法の基本という。

 考えてみれば、最近は、この当り前のことを誰もわからず、家庭でも学校でも教えなくなっているのだ。

 マスコミに華々しく書きたてられて以来、紀子さんがしてきたことは、そう考えると、やはり当り前のことだった。紀子さんは、何が起ころうと、常に自然にごく当り前の態度を貫いてきたのだ。

 ところが、それは現代においてじつに新鮮なことだったのである。

 さて、ここで話は少々横道にそれるが、学習院の教育にふれたてまえ、現代の入学事情についても書いておこう。

 紀子さんのご婚約が決まったとき、学習院父母会のある関係者は言った。

「学習院といっても、いまは普通の学校と変わりません。昔のように華族の方が大勢いらっしゃるということはありませんしね」

 もちろん、それはその通り。ある人が調べたところによると、旧華族の子弟はいまのクラスでは、1人か2人いるかどうかである。

 し かし、そうはいっても、自分の子供を学習院に入れたがる親は後を絶たない。それは、先にもふれた教育の質にもあるが、俗っぽくいえば、「親御さんにしてみ れば、学習院に入れたことで天皇陛下ご夫妻と同じ学習院父母会のメンバーになるわけですから、他の学校に入れるのとはわけが違う」ということだろう。

 普通の学校と同じようで、そのじつ全然違う学習院。幼稚園から大学院まであるとはいえ、大学より下にいくほど良家の子女は多いという。紀子さんだって初等科4年生からの編入だった。しかし、そのせいか当然のように募集人数は少なく、競争率は高い。

 予備校関係者によると、

「初等科の偏差値は52~56。慶応幼稚舎が55~60ですから、やはりかなりのハイレベル。初等科女子の倍率は、平均して10~12.3倍。試験もユニークで、集団テストなどもありますから、ちょっとやそっとのことでは入れません」

 となる。

 集団テストというのは、子供達何人かでゲームをさせ、その行動を観察するというもの。ゲームをすれば、育ち方から家庭環境、性格まで手にとるようにわかるといい、過保護な子供や育ち方に欠陥がある子供は、やはり落とされるという。

 しかし、そうして首尾よく試験を通っても、次に保護者面接という最難関が待ち構えている。ここでは、子供そのものより両親の印象、教育方針、人生観までが、選考の重要なポイントになる。

 子供を学習院に通わせているある父兄はいう。

「初等科に入れるために、いくつかの塾に通わせました。それから、以前初等科で教えられていた先生に頼んで、特別に勉強させたりして、それはいろいろと苦労しました」

さて、初等科で入れなくても女子高等科がある。高等科に入ることは常磐会入会資格者になることだが、こちらも偏差値は高い。男女合わせた偏差値都51.7なのに対して、女子だけだと57となるのだ(駿台予備校のデータ)。

ともあれ、こうして学習院に入りさえすれば、紀子さんと礼宮さまが出会ったように、その場だけは整う。しかし、それと“お嬢さま”になれるかどうか、そしてシンデレラ・ストーリーの主人公になれるかどうかはまた別の話であるが……。

 

◇塾には通わせず、テレビは置かない。

マンガや雑誌は、まず読むことはなかった。両親は、けっして子供に手をあげなかった。

 

 ご婚約決定の日、紀子さんの父・川嶋辰彦氏は、学習院大学構内での記者会見で、こう心境を述べた。

「皇 室会議でのご決定は誠にありがたく、みなさまのご結論をつつしんでお受け申し上げたいと思っております。この機にあたり、紀子には皇族としての責務をしか と自覚し、自覚のもとに自重し、自覚に照らし合わせ、陛下に対して尊敬申し上げ、礼宮さまのご指導のもとに新しい家庭、宮家の中で、気負うことなく人間性 を結実してくれればと願っています」

 娘を嫁がせる父親として精いっぱいの贈る言葉。それは、日本の親達すべてを感動させたといっていい。辰彦氏は、さらにこうも述べた。

「私どもは、ふだんケース・バイ・ケースで紀子に接してまいりました。

 精神の自由、主体性、創造性に重きを置く教育をしてまいりました。しかし、帰結に対しては自らの責任で甘受できる器となるような教育をしてまいりました」

 “塾 には通わせず、テレビは置かない。紀子さんはマンガや雑誌を読むことはまずなかった”といわれる川嶋家の教育方針。それは、こうした辰彦氏の信条によると ころが大きかった。それをこのとき、辰彦氏は初めて公表したのだった。辰彦氏のとなりで、母・和代さんもこう答えた。

「根本的には夫の考え方に賛成ですが、あまりに自由すぎるのもどうかと存じます。私はある程度は規則を持って、ときどき厳しく娘と接してきました。

自分を主張することも大切ですが、人の和も大事であることを理解できるような子供になってほしいと願ってきました」

 娘の主体性を重視する父と、人の和も大切と教える母。紀子さんは、この両親のバランスのなかで、スクスクと育ったのである。

 ここでは、各マスコミでも大きな話題となった川嶋家の“娘教育”をみてみよう。

《テレビよりも家族団欒》

 川嶋家にテレビがないことは紀子さんの同級生達によく知られていた。

「うちでは教育的配慮から、テレビを置いていないの」

 と紀子さん自ら言っていたからだ。

 そして、このテレビを置かないことを決めたのは、父・辰彦氏だった。

「私はテレビ好きだから、見始めたらやめられない」と、辰彦氏は言っており、さらに、「短い人生だから、テレビに縛られずに主体性を持って行動したい。テレビより、本を読んだり、一家団欒を」というのが、辰彦氏の願いだった。

 紀 子さんは、この父の方針に逆らうことなく、読書に大切な時間を費やし、一家での団欒を大切にした。いま、日本のほとんどの家庭が食事どきにテレビのスイッ チを入れっぱなしにしていることを思うと、川嶋家の食事の風景はきわめて例外的である。しかし、テレビを見ることで失われた家族の絆を思うと、川嶋家が人 間にとってなにが一番大切かを真剣に考えていたのが理解できるだろう。

「紀子さんのあの控えめな喋り方が、テレビを見ないせいで育まれたのだとしたら、大変結構なことだと思う」

 と、シナリオ作家の石堂淑朗氏は週刊誌上で絶賛していた。

 紀子さんが、初めて日本のテレビに接したのはアメリカから帰った小学校1年 生のとき。まだ日本語が十分でなかったから、テレビにもさほど興味を示さなかったという。紀子さんにとっては、もともとテレビがそれほど必要ではなかった といえる。しかし、日本で生まれた弟の舟くんは違った。テレビの話題をしないと仲間はずれになるという日本の学校で育ったのだから、その苦労は並大抵では なかったと思う。

 かつて、作家の曽野綾子さんの家にもテレビがなかった。その結果、1人息子の太郎さんは、学校で仲間はずれにされるから“テレビなしでは生きられない”と、父親の三浦朱門氏と大ゲンカをしたこともあったという。

 曽野さん自身、この問題を小説『太郎物語』に書いているが、やはりテレビがあることで失われる家族の絆の方が、人生にとってより損失が大きいようだ。

 ちなみに、天皇家においても食事のときはテレビを見ないという。もちろん、ご一家が食事をされる小食堂や浩宮さまや礼宮さまの個室にもテレビはあるが、ご一家でテレビを長時間見続けるという習慣はないという。

 かつて、まだテレビが普及しはじめたころは、「テレビのない家」は貧しさの代名詞でもあった。しかし、やがてほぼ全家庭に行きわたると、大宅壮一は“一億総白痴化”を口にした。いま、「テレビのない家」は、しっかりした教育方針を持ち、お嬢さまが育まれる家庭なのである。

《塾には通わせない》

 紀子さんは学習院で小・中・高をすごしたせいか、受験戦争には縁がなかった。その結果、いわゆる塾に通ったことはない。現代の子なら、2、3の塾をかけ持ちするのはもはや常識だが、その常識は子供が自ら望んだことではない。

 主体性を重視する川嶋家にとって、塾の存在は、はなから頭になかったようだ。もっとも、紀子さんは塾に通うほど、成績の悪い生徒ではなかった。

《授業より大切なことがある》

「いつもニコニコ笑顔を絶やさず、わかりやすい講義をしてくれる」

 というのが、辰彦氏の学生達のあいだの評判である。

 このわかりやすい点というのが大事で、さらに詳しく学生達にきくと、

「それはわからないから教えてやるという態度じゃないということです。

 例えば、川嶋先生はよく『授業より大切だと思うことがあったら、それを優先させて下さい』と、よくおっしゃいます。それから、特に教科書などにこだわらず、大切なポイントだけをとりあげて熱心にくり返してくださるんです」

 この態度は、もちろん、娘の紀子さんにも発揮された。

 先 の塾に通わせなかった点にも共通するが、川嶋家では、もっと広い視野で物事を見つめていたのである。いわゆる教科書に密着した受験教育の弊害をよく理解 し、それを乗り越えたところで、紀子さんの教育を考えていたようだ。おそらく、それは長い海外生活で身につけた知恵であったろう。

《子供には手をあげない》

 紀子さんは、両親からいちども叩かれたことがなかったという。

「動物でも子供でも、手をあげなくても教育はできる」

 というのが、父・辰彦氏の信念でもあり、両親とも娘に声をあげて叱りつけることをしなかった。

 しかし、甘やかすのとは違う。

 娘が間違ったことをしたら、その間違いがどういうものなのか、どういう点で悪く、今後どうすればいいのかを徹底的に説明したという。

 紀子さんはおっとりして物静かだが、いったん自分の考えを決めたらなかなか変えない芯の強さがある。この芯の強さは、両親のこうした“わかるまで話をして聞かす”教育に培かわれたからだといえるだろう。

《自分だけが特別と思わせない》

 紀子さんは外国暮らしが長かったせいか、珍しく国際感覚を十分に備えたお嬢さんである。しかも、その国際感覚というのは、エリートのそれとは違う。紀子さんは、こうももらしたことがある。

「小さいころの体験のおかげで、いま、自由な発想で物事を考えたり、国籍や年齢を超えて、いろんな人とお友達になれるんだと思います」

 この言葉の底にあるのは、自分だけが特別ではない、人間は皆一緒であるという考え方だ。

この考え方は、おそらく紀子さんがアメリカの公立の幼稚園、小学校で学んだときに自然と身についたものだろう。アメリカの公立の学校には、人種国籍の違う様々な子供が通ってくる。紀子さんの両親は、

「膚の色の違いや、国籍を超える人間に育ってほしい」

 という願いから、現地の日本人学校や一部の特別な学校には入れなかったのだ。

《家の中でも丁寧語》

「おーい、お茶」

「ハイ」

 というのが、日本の典型的な夫婦の家庭内の会話であろう。

 し かし、川嶋夫妻はこうした会話をしないという。たとえ夫婦であっても、きちっとお互いを尊重し、礼儀正しく丁寧語を使うという。もちろん、父と娘、母と娘 の会話もまた同じ。父・辰彦氏は紀子さんの意見に異をとなえるときでも、「あなたの気持ちを傷つけたら申し訳ないけど……」と、きちんと断ってから話を切 り出した。

 これは、日本語というよりむしろ英語の感覚に近い。英語圏では、たとえ夫婦でも物を頼むときは“I’m sorry to bother you”などと話を切り出す。同質文化の中にドップリ浸りきり、お互いの性格に甘えきって暮らしている日本の家族には見られない傾向で、むしろこの方が個人の人間性を十分に尊重し合った家族関係といえるだろう。

《テレずに褒める》

 これは、ある週刊誌誌上に掲載された学習院大教授の寺田勝彦氏のコメント。寺田氏は川嶋家と親交が深い。

「紀子さんは中2のとき、文化祭で『戦争と兵器』という論文を発表されましたが、そのとき、お父さまは、“よくやりましたね”と褒めてらっしゃいました。

 きっとご家庭でも、よいことがあれば、やさしくほめていらしたと思いますよ。

紀子さんはボランティア活動にも熱心だったけど、きっとご両親に褒められて、いっそう熱が入ったんでしょうね」

 

◇知的教養だけではダメ。

行動の教養を身につけてこそ、本当の“お嬢さま”

 

 これまで、紀子さんを育んだ“学校教育”“川嶋家の教育方針”などを見てきてきたが、ここではまた別の角度から紀子さんを見てみたい。

 そ れは、紀子さんが“お嬢さま”と呼ばれるに欠かせないもうひとつの要素を持っている点だ。ひとことでいえば、それは「立ち居振る舞いの美しさ」である。取 材活動、あるいはテレビの画面を通じて紀子さんをずっと見てきてきたが、紀子さんほど歩く姿が美しい女性はいないと思った。さらに、その行動、笑顔を浮か べる間、丁寧なお辞義の仕方など、どれをとっても“お嬢さま”と呼ぶのにふさわしいのである。

 これは、紀子さんが十分な『行動の教養』を身につけているせいだろうと思う。

『行動の教養』。すなわち、周囲の人や物への十分な気配りである。

 一般に教養といえば、知的な点ばかりを想像しがちだが、それだけではけっして“お嬢さま”とは呼ばれない。真のお嬢さまというのは、『知的教養』に加えて『行動の教養』を身につけていなければならないのだ。この2つのバランスがとれていることが大切。そして、けじめをわきまえ、内にある知的教養は外に無理に現わさず、常に謙虚で、自然体であることが、現代でも昔と変わりないお嬢さまの必要条件といえるだろう。

《日常の挨拶は欠さない》

 日本語らしい簡潔で美しい挨拶の言葉を、紀子さんはいつも使い分けていた。

「ありがとうございます」「おはようございます」「失礼いたしました」「ごめんください」「ごきげんよう」……など、どんなときでもすかさず言い、けっして「ありがとう」「おはよう」「失礼」などと省略した言い方はしない。

 さらに、こうした挨拶の言葉は、できるだけハッキリと言い、いくぶんゆっくりと話す。

 声の調子や話し方だけで、その人の性格や人柄はわかってしまうものである。

《話を聞くときは相手の顔に視線を》

 紀子さんは、カメラマンに声をかけられても、けっして無視することなく、驚いたことにその声の方に必ず笑顔を返した。しかも、その視線は、声の主の額から肩までの間に向けられていた。

 これは、話を聞くときの態度と共通する。話上手は聞き上手といい、相手の話を聞くときは必ず相手の顔に視線をやり、いたずらに視線を動かすものではない。視線を動かすのは落ち着きがなく見え、熱心に話を聞いていないと思われて、相手に失礼に当たる。

 紀子さんはこうしたことを十分にわきまえていて、友人達からも「紀子さんなら話しやすい」と評判だった。

《むやみに髪の毛に手を触れない》

 不思議なことに最近の若い女性は、しきりと自分の髪に手をやり、いじくるのが大好きだ。ホームで電車を待っているとき、車内で本を読んでいるときなど、無意識に髪をいじる女性がふえている。

 しかし、髪の毛はどんなに清潔にしていようと、人前でいじらないのがマナー。

 紀子さんがこうした動作をしたのを、これまで1度も見たことはない。

《膝より上で歩く》

 紀子さんの歩く姿は美しい。美しいということは、ムダがないことに通じるが、これがなかなかできない。

 では、どうすればムダがなく美しく歩けるのだろう?

 まず第1に両足を平行に出すこと。よく足を外向きにして歩いている人がいるが、ある調査によると、外向きにしたときは平行のときより同じ時間内では歩く距離が短くなるという。そこで、1本の線をはさむようにして左右の足を平行に出して歩くのがいいとされている。

 次は、歩く姿勢だが、これは足先で歩こうとせず、膝より上で歩くのがいいという。つまり、膝を曲げずに腿(もも)で歩くようにするわけだ。そして、重心はいつも足と足のあいだの体の中心にくる。もちろん、このとき上体を揺らしてはいけない。

 もっとも見苦しい歩き方は、前傾になることで、そうならないようにするためには視線をいつも2、3メートル先に向けること。

 さらに、室内では両手は振らずに体につけ、室外では自然に前後に振るといいという。

 紀子さんの歩き方は、こうした観点から見ると、じつに自然で美しい。

《手で口元を隠して笑わない》

 多くの女性が誤解しているのが、この点。人前で大きな口を開いて笑うのがはしたないと思うと、つい手が口元にいってしまいがちだが、これはわざとらしくて媚びた仕草に見えてしまう。

 そこで、日頃から笑い方に節度を持たせるように努力することが肝心。大声を出したり、思いっきり机をたたいたり、大口をあけたりという動作を、やはり意識して控えてこそ品が出るという。

 紀子さんの笑顔は、前にも触れたが、川嶋家のモットー“オールウェイズ・スマイル”から自然に身につけたもの。いつも自然に笑顔を作れるようになれば、手を口元に持っていくようなことはしなくなるのだ

 

◇むしろ質素な紀子さんのファッション。

お下がりの洋服でも喜んで着る。ブランド品とは無縁

 

 シャネル、グッチ、ルイ・ヴィトン……。お嬢さまといえば、これらの代表的ブランド品を身につけているというのが一般的なイメージとなっている現代に、紀子さんの登場はやはり新鮮だった。

 紀子さんは、これらのブランド品をほとんど身に着けてはいない。むしろ、あえて遠ざけているといっていい生活をしてきたからだ。

 ご婚約が決まったとき、紀子さんの住む3LDKの職員アパートを指して、「えっ、あそこなの?」「うちの方がまだまし」と、口さがない記者達の中から、こんな会話も出たくらいなのである。

 未来のプリンセスの住まいは、確かに3LDK。5階建てだがエレベーターはなく、建て物の所々は白ペンキがはげかかっている。

 川嶋家はこの部屋に一家4人。その生活は派手な面は少しもなく、むしろ質素といってもいい。

「紀子ちゃんはお母さんのお下がりの洋服でも喜んで着ていました。また習い事の先生からもらった服も気に入っていたようです。もちろん、恥ずかしいなんて気持ちはありません」

 と、ある同級生。

 また別の同級生も、

「お化粧もほとんどしなかった。たまに口紅を薄く塗るくらい。アクセサリー類もそんなには着けていません。でも、かわいらしいから何でも似合ってしまって、よく街で売っている1000円ぐらいの安物のペンダントをつけて礼宮さまとデートしたという話もききました」

 という。

 ファッションやアクセサリーに特別にお金をかけない。むしろ慎ましやかにオシャレを楽しんでいた紀子さん。一般的なお嬢さんのイメージとは違うかもしれないが、これこそが真のお嬢さんともいえるのだ。

 それは、学習院の教育理念を考えると、よりハッキリとする。

 もともと皇族や華族のために作られた学園だから、通う生徒はぜいたくと思われがちだが、学内ではぜいたくは厳しく禁止された。

 ぜいたくは競争になるからで、生徒達はむしろ質素にすることを厳しく教えられたのである。この伝統が、現代においても受け継がれているのはいうまでもない。

 だから、紀子さんはお嬢さんであっても、意味のない競争的なぜいたくはけっしてしなかったのである。

 婚約発表以後、マスコミのカメラが執拗に追いかけるようになっても、紀子さんのこの姿勢は変わらなかった。

ここでは、以下、紀子さんのファッションのポイントをまとめてみた。

《定番は白と紺の組み合わせ》

 ご婚約決定の日のファッションは、もちろんフォーマル・ドレス。紺色のワンピースだったが、これは母・和代さんの友人の手作りと伝えられた。シンプルなデザインで気品をもたせたうえ、サッシュベルト、ギャザースカートで若さも演出し、紀子さんの美しさを際立たせていた。

 紀子さんは、この日以外にもよく紺色のドレス・スカート姿で外出。紺のスカートのときはきまって白のブラウスを着た。白のブラウスは大きな襟がポイントのラップブラウス。

 白と紺が紀子さんの定番のカラーのようだ。

《スキー・ファッション》

 流行にはしらない手頃なファッション。ザ・ブランド品より、むしろ機能で選んでいる。ビステジャケットは“エレッセ”で約3万5000円。ウェストポーチは“カザマ”。靴は“ダハシュタイン”。スキー板は“アトミック”と、いずれも普及タイプだった。

《襟元の開いたドレスは着ない》

 紀 子さんの外出は、たいていはシンプルなワンピースかスーツ。ボディコンとは対照的な清楚でオーソドックスなものばかり。ダイアナ妃の大胆さはないが、1度 だけスーツの下に、胸元が開いたサマーセーターを着ていたことがあった。このときも、肌が見えるインの上には、必ず肌を隠すようにトップを合わせていた。 これが上品さを見事に演出。

《スカート丈は膝よりやや下》

 紀子さんのスカート丈はいつも一定。膝よりやや下で、大学のキャンパスでもほとんどがこの丈のスカートを。また、カラーコーディネイトはたいてい2色。原色は好まず、紺やアースカラー以外の明るい色では、ピンクがお気に入りのようだ。

《ナチュラルメイク》

 きめの細かい素肌を生かしたナチュラルメイクが基本。ポイントは、りりしい眉作り。ゆるやかな山なりになるようペンシルで1本1本描き、眉ブラシでぼかしている。口元はリップグロスか、控えめピンクでほんのりと。

 

◇天皇家の一員になるために必要な知識の数々――

紀子さんが受けた“お妃教育”の中身とは?

 

 平成2年2月13日から、紀子さんは毎日のように宮中に通い、宮内庁書陵部3階の会議室で“お妃教育”を受けた。

 お 嬢さんから妃殿下へ。この“お妃教育”によって生れ変わるのだ。これまで紀子さんが培ってきたものによりいっそうの磨きをかけ、さらに新たな知識と教養を 身につけなければ、プリンセスにはなれないのである。“お妃教育”は、料理やお花、生け花といった一般の花嫁教育とは趣きが違い、主な内容は、新年祝賀の 儀や歌会始といった年間の宮中儀式、元始祭や新嘗祭(にいなめさい)などの宮中祭祀、天皇家のしきたりと歴史、象徴天皇制を定める憲法、和歌、習字といっ たところが中心となった。いわば大学院並みの憲法学からお辞儀の角度まで、皇族としてのすべてを学んだのである。

 華子さまの場合、旧津軽藩出身の元華族ということもあり、お妃教育は週5日、計2ヵ月にわたり、8科目の講義を受けられたが、美智子皇后さまの場合はこれ以上のものだった。民間出身、しかも聖心女学院でミッション教育を受けていたことから、『納采の儀』の行なわれた昭和34年1月14日の前日から約3か月間、週6日もの講義を受けた。紀子さんも、皇后さまの先例にならって教育を受けた。

 皇后さまの受けられたお妃教育はどのようなものだったのか。

 当時、宮内庁が作成した「正田美智子様御教育時間割」はこうなっている。カッコ内は講師名である。

 

月曜日:9時半~10時半、習字(藤岡保子)。10時半~12時、和歌(五島美代子)。

火曜日:9時~10時、英語(フレンド学園園長・エスター・ビー・ローズ)。10時~11時、憲法(最高裁長官・田中耕太郎)。

水曜日:9時~10時、仏語(東大教養学部教授・前田陽一)。10時半~11時半、礼儀作法(東宮参与・松平信子)。

木曜日:9時~10時、宮内庁制度(宮内庁次長・瓜生順良)。10時~11時、お心得(東宮参与・小泉信三)。

金曜日:9時半~10時半、宮中祭祀(掌典長・甘露寺受長)。10時半~11時半、宮中慣習(侍従・入江相政)。

土曜日:9時半~10時半、宮中儀式及行事(式部副長・吉川重国)。10時半~11時半、宮中儀礼(女官長・保科武子、御用掛・高木多都雄)。

 

 これらの講義は無論、1対1。そうそうたる顔ぶれが講師に名を連ねていたこともあり、皇后さまは息を抜く暇もなく、大学ノート持参で宮内庁分室(現在の桂宮邸)に通われた。

 もちろん、紀子さんも皇后さまと同じ。大学ノートをバインダー式のノートにかえて、毎日緊張してメモを重ねていった。

 ただ紀子さんの場合、他の方々の“お妃教育”と違っていた点が2つあった。

 第1は、書道。これは和歌を書くためにも是非必要なことだが、紀子さんは高等科時代から書道を習っていたため、2時間に短縮された。第2は、外国語。通例なら重要な科目で“英語をたたきこまれる”のだが、これは紀子さんが英語に堪能なためカットされた。

 しかし、それでも、時間は28回28時間。約1カ月半にわたって猛勉強は続けられた。

 では、紀子さんの“お妃教育”の中身から私達も知っておくべき点を何点か、Q&Aにしてみよう。

 

Q1:天皇家にとって、なぜ伊勢神宮は大切なのか?

《A》伊勢神宮には皇室の先祖である天照大神(あまてらすおおみかみ)が祠(まつ)ってあるから。ご神体はその神話に登場する「三種の神器」の1つである八咫鏡(やたのかがみ)。

紀子さんが皇室の一員になると、何よりもまず伊勢神宮へお参りや報告に行くのはこのためである。

Q2:日本の憲法第1条には、どんなことが規定されているか?

《A》「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(日本国憲法第1章第1条)。

『憲法』の講義では、とりわけ「第1章 天皇に関する規定」に重きがおかれた。

Q3:いま目本には皇族は何人いるか? そのうち女王は?

《A》天皇は皇族とはいわない。皇族の範囲を身分の順位であげると、皇后、皇太后、親王(浩宮さま、礼宮さま)、親王妃(紀子さんはこれになられる)、内親王(紀宮さま)、王、王妃、女王。現在20人。

女王がいちばん下位とは変な感じもするが、日本では天皇家の男子を親王、女子を内親王。宮家の男子を王、女子を女王と称している。

Q4:なぜ、和歌の知識が必要なのか?

《A》天皇陛下が主催する毎月1回の和歌の会を“月次(つきなみ)のお歌”といい、各皇族は和歌を作って天皇陛下にお見せする。

正月には歌会始もあり、妃殿下となる以上は、和歌の心得がないとつとまらない。しかも、古風なしきたりがあるから、ちゃんとした和歌を作るのは大変。そのために各科目の中でも日本歴史とともにいちばん長い6時間があてられた。

Q5:宮中でするお辞儀の頭の下げ方は?

《A》天皇・皇后両陛下など目上の方に対しては、両手を前におろして深くお辞儀をする。外国の賓客に対しては、国王・女王などの元首には、相手の手を右手で受け、膝を折ってお辞儀をする。その他の賓客は握手だけ。

 

 

Part 5:紀子さんの愛をあなたに!

    あのとき紀子さんはこう語った――全語録

◎万人への愛

 

「話すとき、日本語より先にドイツ語が浮かんじゃうの」

――オーストリアから帰国して学習院中等科2年生に編入、クラスメイトにこうもらした。

帰国子女でもある紀子さんは、日本文化とのギャップに悩んだことも。(昭和54年9月)

 

「えすぷれっそ 虹の彼方に行こうね」

――学習院中等科の卒業文書に寄せたコメント。当時の紀子さんは、気持ちは積極的だったが、どこかはにかみ屋だった。(昭和56年3月)

 

「きょう1日、どうぞよい日をおすごし下さい」

「こきげんよう」

――近所の人々の証言によると、紀子さんは、道で会っても、こうしたていねいな日本語でキチンとこう挨拶したという。「ごきげんよう」とは、普通の女子学生はあまりいわないが、学習院女子部の挨拶の言葉でもある。

 

「私達がのどの渇きをがまんして牛乳1本分のお金を出せば、何十人もの患者さんが助かるのよ」

――高等科時代、学校の厚生委員会の副委員長を務めた紀子さんは、こう言ってクラスメイト達にハンセン氏病患者への学内募金を熱くアピールした。(昭和59年頃)

 

“ワタシハ、カワシマキコデス”

――大学入学と同時にボランティア活動を積極的にするようになった紀子さんは、手話を身につけ、友人に「何かやってみせてよ」とせがまれると、手話でこう話した。(昭和60年秋)

 

「日本については私が協力しましょうか」

――『東南アジア青年の船』で同乗したフィリピン人の学生、ジュリー・ロザリオさんが、「各国の若者の比較研究をしたい」と言うと、紀子さんはじつに気さくにこう申し出た。(昭和62年9月)

 

「これからはアジアのことを知らないではすまされないわ」

――大学3年の秋、『東南アジア青年の船』に乗船して貴重な体験をした紀子さんは、帰国後クラスメイトにこう言った。(昭和62年10月)

 

◎礼宮さまとの関係

 

「サークルの先輩と後輩です」

――礼宮さまとの関係を質問したマスコミ関係者に対して、大学時代を通じていつも紀子さんはこう答えていた。

 

「きさくな方。庶民的な方だと思います。古風なところと現代的なところがありますね」

――礼宮さまとの初対面の印象をたずねた朝日新聞記者、内藤修平氏に答えて。内藤氏はマスコミの人間として初めて紀子さんにインタビュー取材した。〈アサヒグラフ平成1年9月15日号より〉(昭和61年5月)

 

「辞書が必要なくらい、難しくてきちんとした会話をしなければならない方」

――大学2年生のとき、クラスメイトからボーイフレンドの有無をきかれて、こう答えたという。〈女性自身平成1年9月19日号〉(昭和62年頃)

 

◎初恋だった!

「申し上げてよろしいのですか。……はい、そうでございます」

――婚約発表記者会見で、「礼宮さまが初恋の人なのですか」の質問に答えて。(平成1年9月12日)

 

「生物、たとえば御所内で飼っていらっしゃるナマズやアヒルなどを可愛がっておられるお姿とか、あと、魚類の研究に熱心なお姿とかに強く魅かれました。

また、タイのお酒・メコンに誘われるまま先生やご友人と語り、またギターを弾かれたりするご様子に魅かれました」

――婚約発表記者会見で。礼宮さまのどんな点に魅かれたかを。(平成1年9月12日)

 

◎愛する苦しみ

 

「たまたま好きになった人が宮さまだっただけ」

――紀子さんは親しい友人には、礼宮さまとのことをこうもらしていたという。〈SPA平成1年9月6日号〉

 

「『よく考えさせていただけませんか』と申しあげさせていただきました」

――婚約発表記者会見で、“信号待ちのプロポーズ”をされたときの紀子さんの返事。(昭和61年6月26日)

 

「自分の努力で克服できるものと、そうでないものがあります。宝くじに当たらないとダメだったり、タイムマシンで過去に遡らなければ改められない問題もあります」

――礼宮さまとの関係を聞かれ、初めて結婚を意識した発言を、朝日新聞記者、内藤修平氏に。〈アサヒグラフ平成1年9月15日号より〉このとき、紀子さんは、家柄・資産など、2人だけでは解決できない問題があることを暗にこう言った。(昭和63年9月)

 

「こ れからは以前よりももっとお親しくさせていただくことができることを大変うれしく思っておりますが、やはり心に通じ合うものがございましても、(礼宮さま が英国へ戻られ)距離が離れますと、やはり寂しいものでございますので、お発ちになる日はしんみりと涙を流すことになるのではないかと思いながらも、笑顔 でご出発を送りたいと思っております」

――婚約発表記者会見で、礼宮さまへの心情を吐露したハイライト部分。(平成1年9月12日)

 

◎結婚について

 

「結婚するなら、白いピアノと黒い馬をプレゼントしてくれる人がいい」

――『東南アジア青年の船』で、同室だったフィリピン人の参加女性、ライラ・タンゴナンさんに。紀子さんは「私にはボーイフレンドがいる」とも語り、タンゴナンさんほかのメンバーは、紀子さんが日本のロイヤルファミリーのメンバーと交際していると聞かされていた。(昭和62年9月)

 

「私は結婚しても自分のやりたいことと主婦業を両立させていきたい」

――大学時代、クラスメイトの池谷のぞみさんに、こう夢を語った。もちろん一般論であろうが、礼宮さまとの将来に悩んでいた時期でもあったのでは?(昭和63年頃)

 

「ずっと甘くて、辛くて、という感じの関係がいいと思います。ぴりっとしたタイ料理のような……」

――納釆の儀(結納)を控えたある日、友人にこう語っていたという。〈週刊女性平成2年2月6日号〉

 

◎嫁ぎゆく女心

 

「赤坂御所と書くだけで着きます、いまは“豊島区・川嶋紀子”だけで届くのよ」

――『第16回東南アジア青年の船』出航式に出席した紀子さんは、友人に「結婚後も手紙を出して大丈夫?」と聞かれてこう答えたという。紀子さんフィーバーは最高潮。〈週刊女性平成1年10月3日号〉(平成1年9月26日)

 

「ナマズが指に巻きついている感じでお願いします」

「ひげの感じを生かしたいんです」

――礼宮さまが英国に帰られるとき、紀子さんはナマズのリングをプレゼント。そのリングの注文のときの言葉。紀子さんが自ら発案したデザインだった。(平成1年10月)

 

「大切なものだから、しまってあるの」

――学習院女子高等科の同窓会『すずらん会』に出席。同窓生の1人が婚約指輪をしていないのを見つけ、「指輪はどうなさったの?」と聞いたときの返事。

 

「お式のとき、自前の髪が必要でしょ。だから伸ばしているの」

――同じ席で、別の同窓生が、髪が伸びているのに気づき、質問すると、こんな答えが。晴れの日には十二単を着る紀子さんは早くもこんな気づかいを。〈女性セブン平成1年10月26日号〉(平成1年10月7日)

 

「ウイスキーは少し控えていただかなくては……」

――寒い英国で暮らす礼宮さまの健康を気遣ってこうもらしたことも。〈週刊女性平成2年1月30日号〉(平成2年1月)

 

「謹んでお受けいたします」

――「天皇陛下のおぼしめしを受け、礼宮文仁親王は、本日、川嶋紀子嬢に結婚の約をなすための納采を行なわれます」

 礼宮さまの使者として川嶋家を訪れた重田保夫侍従次長の述べる口上を、じっと聞き入り、やや間をおいて、透きとおるような声で。納釆の儀。(平成2年1月12日)

 

「ご口上を承り、改めて気持ちの引き締まる思いがいたします。これからはますます健康に留意しつつ、心静かにその日を迎えたいと存じます」

――告期の儀(婚礼の日取りを告げる儀式)での紀子さんは、こう返答を。(平成2年5月11日)