[017] 究極の救済策、永久国債で日本は再建できる!? 印刷

2009年4月20日

過去最大の追加経済対策を15兆4000億円の財源


 政府は、2009年4月10日に追加経済対策を決定し、その総事業費は56兆8000億円、財政支出は過去最大の15兆4000億円と発表した。これは、2009年のGDPの規模を2%押し上げる効果があるとされ、大方の見方は「規模としてはまあまあ」のようだ。

 しかし、その中身となると、目玉が、エコカーの購入補助金、省エネ家電購入にポイント給付、3万6000円の子育て応援特別手当、ワークシェアリングに取り組む企業に助成金……などで、「総花的バラ撒き」の感は否めない。
 結局、先に規模がありきで、なにをやるべきかが後になった(というより、わからなかった)から、このようなことになったのだろう。

 それは、ともかくとしても、ここでの大問題は、この追加経済対策の財源resourcesのほとんどが新規国債だということだ。その額は、なんと10.8兆円と4月18日に発表された。

 


 

 

財政破綻と大不況の日本を救う方法はあるのか?


 となれば、2009年度の国債発行額は44兆円を超えることとなり、これは、過去最高記録である。しかも、当初予算で46兆1000億円と見込んでいる税収が不況により4兆〜5兆円下振れするのが確実だから、最終的に国債発行額が戦後初めて税収を上回る公算が大きい。

 これは、必要な歳入の半分以上を借金で賄う状態であり、もはや、日本の財政は破綻しているといっていい。財政破綻と大不況。いまの日本はまさにタイタニック状態にあるが、これを救う方法はあるのだろうか?

 じつは、奇手かもしれないが、1つの選択肢と考えられるのが「永久国債」である。現在、政府では、「政府紙幣」や「無利子国債」の発行が検討議題に上っているが、「永久国債」は、それを上回る究極の財政破綻回避・景気刺激策になる可能性がある。


4人の著者による「永久国債」の提言を5月に刊行


 この永久国債をテーマにした本を、いま、私は編集している。ペーパーバックスより、5月新刊として出す予定(仮タイトル『永久国債の研究』)で、すでに、原稿はほぼ仕上がっている。
 著者は、なんと4人。とういか、イントロダクションを私が担当したので、5人である。

 まず、国際問題評論家でペーパーバックスでの著書もある藤井厳喜氏。じつは、この藤井氏が中心になって、今回の執筆メンバーが集まった。 イントロに続いて、日本の直面する問題をまとめてくれたのが、日本金融通信社の編集局国際部長の有澤沙徒志氏。有澤氏は、ウォール街で17年のキャリアを持つ金融マンであり、かつて『日本人はウォール街の狼たちに学べ』(中経出版、1998)という本を書いている。

 そして、メインになる部分を書いたのは、調所一郎と松田学氏。
 調所氏は、幕末の薩摩藩で歴史に残る大改革を行った家老・調所笑左衛門広郷から数えて7代目の子孫である。調所氏の先祖・調所広郷は、この本で提言する永久国債のヒントとなる藩の負債の「250年賦」(債務の250年間払い)を起案・実施した人物であり、その子孫・調所一郎氏がその経緯を執筆したというわけだ。

 松田学氏は、財務官僚であり、2008年10月に『競争も平等も超えて—チャレンジする日本の再設計図』(財経詳報社)という本を上梓している。これは、日本版ニューディールともいうべき政策提言集であり、日本の向かうべき方向を示したものとしては画期的な論文だった。
 したがって、永久国債というテーマを受けて、その実現可能性feasibilityなどを含めてさまざまな見地から検証し、日本のあり方を示してくれた。

 さて、では、永久国債とはなんだろうか?
 いちばん簡単に言えば、「永久に償還されない国債」である。そんなものが実現できるのかという見方もあるだろうが、やってみる価値はある。というのは、これで日本が現在陥っている閉塞感から脱出できる可能性があるからだ。
 永久国債の中身については、今度の本を読んでいただくとして、以下、私が、その本のイントロに書いた部分を紹介したい。

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         なぜいま、永久国債を論じるのか?  

                山田順(ぺ—パーバックス編集長)

いまや世界中の国々が財政危機に

 まさにいま、世界は、同時不況にのたうちまわっている。日本経済はもとより、震源地のアメリカから、ヨーロッパ、中国、ロシア、インドにいたるまで総崩れである。
 いったいいつになれば回復するのか? それ以前に、この世界大不況world depressionの出口があるのかどうかさえわからない状況が続いている。
 2008年9月のリーマンショック以来、世界中の国々が不況対策のために、これまでにない規模の財政出動fiscal stimulusをくり返してきた。財政出動といえば、バブル崩壊後の日本の「専売特許」だったが、それを世界中がやり始めたのである。しかし、その財政出動の結果、日本は巨額の財政赤字を積み上げ、国家破産national bankruptcyの危機に瀕するようになった。つい先日まで、世界の先進国のなかで、わが国だけが突出して財政赤字の対GDP比が悪い状態が問題視されていた。
 それがどうであろう。金融危機が起ると、アイスランドやハンガリーなどの小国は次々と財政破綻し、いまや世界中の国々が財政赤字を積み上げて、国家財政の破綻の危機に瀕するようになってしまった。


このまま税金を投入し続けていいのか


 すでに、アメリカも財政破綻状態にある。じつは、2008年9月のリーマンショックを待たずに、アメリカではほぼ毎日1行の割合で投資銀行やファンドが破綻していたし、イラク戦争に巨額の戦費を費やしたブッシュ前政権の放漫財政lax financeもあって、国家財政の赤字は史上最大規模まで膨らんでいた。
 2007年11月、アメリカの会計検査院に当たるGAO(Government Accounting Office)は、事実上の財政破綻宣言を行っている。その内容は、あまりにも衝撃的で、「累積赤字が53兆ドルを突破したいま、回復の可能性はゼロ」というものだったが、この警告は、ブッシュ前政権によって半ば葬り去られ、メディアで大きく取り上げたところはなかった。
 日本でも、これまでに何度も、財政赤字fiscal debtsに対する警告が心ある識者や研究機関によって発せられてきたが、国民全体の意識を喚起させるにはいたらなかった。このペーパーバックスのシリーズでも、国家財政の危機をテーマにした本を何冊か出してきたが、世論を大きく動かすことはできなかった。
 しかし、世界が同時不況に陥り、そのなかで巨額の財政赤字を抱えたわが国が、このままそれを放置し続けていいのだろうか? 不況脱出a way out of the slumpのために税金を投入し続けて、さらに赤字を積み上げれば、いずれ破綻は確実にやってくる。
 となれば、それがハイパーインフレのような事態となれば、国民生活は根こそぎ破壊されてしまうだろう。


「政府紙幣」はデフレ脱却の切り札か?


 それでは、現時点で、なにか有効なアイデアがあるのだろうか?
 2009年になって自民党内で急激に浮上してきたのが、「政府紙幣」と「無利子国債」というアイデアである。日本銀行券のほかに政府が独自に発行するのが政府紙幣であり、相続税inheritance taxを免除する措置付きの国債が無利子国債である。
 この2つのアイデアのうち、政府紙幣はかなり評判が悪い。この構想が持ち上がった際に、伊吹文明前財務相は「政府紙幣はマリファナだ」と批判し、津島雄二党税調会長も「円天」事件を引き合いに、「円天を政府がやるような話になる」と皮肉った。
 とはいえ、政府紙幣構想は構造的なデフレ脱却の切り札として、かなり以前から提唱されてきている。たとえば、榊原英資早稲田大学教授は、『中央公論』の2002年7月号に「〈日本が構造的デフレを乗り切るために〉政府紙幣の発行で過剰債務を一掃せよ」という論文を書いているし、ノーベル賞経済学者スティグリッツ氏も来日講演で政府紙幣の発行を提言し、「緩やかに政府紙幣を市場に出せばハイパーインフレを引き起こすことはないし、国債では債務を借り替える必要があるが、政府紙幣ならそうする必要がないという利点がある」と強調した。
 また、小泉内閣で改革を進めた竹中平蔵氏のもとで手腕をふるった高橋洋一氏(当時財務省)も、「政府紙幣発行の財政金融上の位置づけ」という文書を作成して、政府紙幣の発行を提唱している。
 彼は今日までその主張を続けていて、政府紙幣の発行を景気浮揚策economic boostとして位置づけ、現状のデフレと円高を是正する手段として25兆円規模の政府紙幣を発行すれば、物価を1~2%上昇させ、為替も1ドル120円くらいに円安になるとしている。


通貨の切り下げが最終的に第2次世界大戦を


 しかし、政府紙幣というのは、中央銀行発行以外のもう1つの紙幣が存在するわけで、大量発行するとマネーサプライが激増して、収束不能のインフレ、つまりハイパーインフレを招く危険性が高い。また、円高是正という目先のことより、日本の通貨である「円」の価値が下がる可能性が高く、このこともインフレを誘発しかねない。
 そもそも、政府紙幣というのは、政府が政府そのものの「信用」creditをバックに、ただの紙を印刷して紙幣(おカネ)に替える行為だから、発行益は丸々政府に入る。これが、同じ政府発行の国債なら、利息も払わねばならないし、満期がくれば償還もしなければならない。しかし、政府紙幣はそんな必要はないし、いくら発行するかも政府の自由だ。だから、歯止めがなくなると怖いので、財政法で禁じられている。
 また、世界的に見ても、このような行為は近代資本主義下では禁じ手である。なぜなら、他国から見れば、政府紙幣の発行は自国通貨の切り下げ行為であり、そんなことを勝手に行えるなら、いまのグローバル経済は成り立たなくなるからだ。
 世界大恐慌the Great Depressionの後、各国が競って自国通貨の切り下げ競争に走り、その結果、各国は自国経済を防衛するためにブロック経済体制に向かった。やがて、これが第2次世界大戦を招いたのは、貴重な歴史の教訓lesson of historyである。
 それがわかりながら、これを主張するのはお人好しhonestly naiveであり、仮にもいまの状況でそんなことをすれば世界から袋叩きにあうだろう。では、なぜ、高名な経済学者スティグリッツ氏までが、財政赤字に喘ぐ日本に対して、政府紙幣の発行を提唱したのだろうか?
 それは、彼のリップサービスか、あるいは、日本を経済原則の効かない後進国と見ていたからと言うしかない。


富裕層にとって魅力的な「無利子国債」


 それでは、もう1つのアイデアである「無利子国債」のほうはどうだろうか? じつは、この無利子国債は、本書のテーマである「永久国債」irredeemable government bondとは、わりと近いアイデアである。
 まず、無利子国債というのは、相続税を支払う人たちが購入することを念頭にした国債である。つまり、この国債を買えば、相続税を払う義務dutyが免除されるので、子孫に財産assetsを残したい人には魅力的な商品に違いない。資産を無利子国債に換えていれば、死亡後に相続する遺産を増やすことができるからだ。
 たとえば、10年国債で考えると、年利約1.3%で1000万円分を買ったとすれば、利子interestにかかる税金を除いて満期で約100万円の利子収入になる。利子をもらうよりも、相続税を減らすことに熱心な富裕層wealthy classにとっては、間違いなく需要はあるだろう。
 ただし、現在、日本の個人の金融資産は1500兆円と言われているが、このうちの富裕層が持つ資産のどれだけが無利子国債に向かうかはわからない。いまの相続税の対象となるは、死亡者のうちの4%程度という。したがって、利子負担の軽減をはるかに上回る税収tax revenueの減少が起こる可能性もある。
 また、いずれにしても富裕層が対象のため、「所得格差の固定化を促しかねない」との批判もある。このため、財源を失業者対策などの「社会保障分野に充てる」という考え方のようだが、それでも、相続税の減税分は結局、国民全体で背負うことになるので、はたして国民的コンセンサスが得られるかどうかは不透明だ。


自民党有志議員の「緊急提言」の中身


 2009年3月11日、自民党の「政府紙幣・無利子国債の発行を検討する議員連盟」(顧問は菅義偉選挙対策副委員長)は、緊急提言をとりまとめ、麻生太郎首相に提案した。
 これを受け取った麻生首相は、まんざらでもない様子だったというが、この人には日本が“未曾有の危機”unprecedented crisisにあるという認識は薄いだろう。緊急提言は、「日本経済を危機的状況」と位置づけたうえ、政府紙幣や相続税免除付き無利子国債の発行はもとより、贈与税の減免、日銀に対する国債買い切りオペの増額、量的緩和政策quantitative easingの導入などを求めていた。
 ここであえて書いておくが、これらの提言のほとんどは、憲法や財政法を無視したものだ。そもそも日銀が国債を買うことは禁じられている。しかし、いまや、アメリカですら財務省が発行したアメリカ国債US Treasury(財務省債券)をFRBがどんどん買っている。
 話を戻して、この議員提言は、無利子国債について、かなり積極的に主張していた。すなわち、家計の金融資産を今後の景気対策の財源として有効に活用するためには、「発行すべき」というのだ。
 そして、その商品性は、相続免除特典付きとするほか、年限を10年または20年とし、中途換金も認めるべきだと主張する。さらに、無利子国債の発行に併せて、高齢者世帯ほど多く保有している資産を次世代に円滑に引き継ぐためには、贈与税の減免も必要だというのである。
 もちろん、政府紙幣の発行も提言された。そして、この発行は「無利子・無期限の国債を日銀が引き受けることと同義」と解釈されていた。
 菅義偉氏は、麻生首相との会談後に記者会見し、次のように語った。
「厳しいときであり、(首相は)あらゆるもの、できることはやっていきたいとの思いが強い。全体としては、(この提言に)前向きだと思う」
 だが、これらの効果のほどが不透明なアイデアが本当に実現するかは、いまの時点ではまったくわからない。


国民1人当たりの借金はなんと約433万円


 世界全体が危機に陥ってしまったので、日本の財政危機問題はかすんでしまった。とはいえ、その状況は深刻さを増している。
 そこで、本題の「永久国債」を論じる前に、この状況を整理して述べておきたい。
 まず、国の債務である普通国債の残高であるが、これは、2008年度末現在で約553兆円である。この額は、すでに日本の毎年の税収約50兆円の10倍以上というとんでもない額に達している。
 ところが、今回の世界同時不況で、政府は2009年4月10日に追加経済対策を決定し、その総事業費は56兆8000億円、財政支出は過去最大の15兆4000億円と発表した。この財源resourcesのほとんどは国債で、その額は10兆円を超えるから、2009年度の国債発行額は43兆円を超えることとなり、今年度末には国債残高が590兆円を超えるのは間違いなくなった。
 これだけでも異常だが、さらに懸念されるのが、不況で税収が落ち込むことである。2009年度の税収は約46兆円とされているが、税収がこの額に達しないとすると、国債発行が税収を上回ることになってしまう。
 これは、日本の財政史上ありえなかったことで、「緊急事態」と報じた新聞もあったが、日本の国家財政national financeは緊急事態というより、もはや破綻しているといったほうがいい。
 とはいえ、話をわかりやすくするため、ここで、国の借金を国民1人当たりの借金per-capita debtに置き換えてみる(2008年度の国債残高から)と、なんと約433万円になる。もし、読者が単身者ではなく家庭を持っているとするなら、夫婦と子供2人の家庭で1732万円以上にもなってしまう。このような借金は、どうみても、そう簡単に返せるものではない。
もし、日本政府がこの553兆円の借金を10年で返すとすれば、毎年53兆円で、これだと毎年の税収はすべてなくなってしまう。では100年ではどうかといえば、それでも5兆5300億円。これすら、厳しい。
しかし、これは国債だけの話である。これに、借入金、政府短期証券(FB)、政府保証債務などを加えると900兆円以上になり、さらに地方が抱えている借金(地方債務)も加えれば、日本国の借金の合計は軽く1000兆円を突破する。また、年金なども債務として合算すれば1500兆円を超えるとされるから、これはもはや、危機を通り越して破産していると言っても言い過ぎではないのだ。


日本国のバランスシートは債務超過

 
言うまでもなく、日本の財政は「債務超過」insolvencyである。一般的に、企業ならバランスシートbalance sheet(貸借対照表)を見れば、債務超過かどうかがわかる。しかし、日本国はあるときまで、このバランスシートさえなかった。
日本国の連結ベースのバランスシートが公開されたのは、2001年(平成13年)のことである。このとき、財務省は、大蔵省設置以来100年以上の歴史をとおして初めてバランスシートを公開し、以来これを5年間続けた。しかし、この3年間はまたしても公開されていない。
以下が、その5年間のバランスシートだ。
 
2001年度(平成13年度)198兆円
2002年度(平成14年度)213兆円
2003年度(平成15年度)253兆円
2004年度(平成16年度)276兆円
2005年度(平成17年度)289兆円

見ればわかるように、いずれの年度も大幅な債務超過であり、その超過額は毎年拡大している。とすれば、この未曾有の金融危機と大不況で、数字はさらに悪化するだろう。
 債務超過額は、おそらくいまでは300兆円を超えているはずであり、やがてGDPと同額の500兆円に迫るとなれば、もはや日本に未来はなくなってしまう。
 ここではっきり述べておきたいのは、国家の債務というのは、国家ではなく国民の債務だという点だ。債務が主に国債だから、国債を買っていない国民は関係ないと思うのは勝手だが、実際は、国債は国民が払う税金で償還される以上、支払い手は国民自身である。
国債の引き受け手underwriterは、ゆうちょ銀行をはじめとする金融機関であるが、そこに私たちの預金がある以上、私たち国民が間接的に国にお金を貸していることになる。つまり、私たち国民は、国家の債権者creditorsでもあり連帯保証人cosignersでもあるのだ。
アダム・スミスは、『国富論』のなかで次のように述べている。
「政府が破産を余儀なくされた場合、民間人がそうなった場合と同様に、公正に公然と破産を宣言するのが、債務者にとっては名誉を守る最善の方法であり、債権者にとっては打撃を最小限に止められる方法である。破産という不名誉な現実を覆い隠すために、簡単に見透かされるほど無様だし、極端に有害なこの種の策に頼っていては、政府は名誉を守ることなどできない。だが古代にも近代にもほとんどの国は必要に迫られたとき、何度かこの無様な策に頼ってきている。」(アダム・スミス著 山岡洋一訳『国富論』下巻)

 ここでスミスが言う「無様な策」と言うのは、ずばり「戦争」のことだ。しかし、このグローバル化が進んだ21世紀において国民国家同士が戦争することは考えられない。とすると、債務超過の国がしなければならないのは、債務帳消しdebt writeoffのためのなんらかの政策となる。アダム・スミスはこうも述べている。
「政府債務がある水準まで蓄積したとき、すべて破産によってしか解決しない」
 無税国債も政府紙幣も、「不況対策」とは言ってはいるが、じつは、破産処理政策とも言えなくもないのである。


「借換債」という法的には根拠のないマジック


 では、なぜ、これほどまでに日本の財政赤字は膨れ上がってしまったのだろうか? 財政規律budget disciplineを無視して、なぜ、これほど大量の国債が今日まで発行され続けてきたのだろうか?
 それは、憲法の精神と財政法を、政治家と大蔵省が結託して破ったからだ。その結果、法律的にはありえない「借換債」というものが生まれた。
当初、東京オリンピック後の「昭和40年不況」対策として発行された建設国債は、1975年度からは赤字国債(財政赤字を補填する国債)として、大量発行が始まった。ただし、10年後の1985年度には、この赤字国債は償還redeemされることになっていた。
ところが、ここに、「借換債」というものが登場した。償還すべき国債の6分の1だけ償還し、残りを新規国債を発行して先送りしたのだ。
財政特例法では、「(国債の)借り換え発行はしない」と明記されている。だから、国債の償還は、一般会計general accountからの繰り入れで積み立てられることになっていた。バブル景気the bubble economyで一般会計税収は増加していたにもかかわらず、大蔵省と政治家は、このルールを無視してしまった。まさに、マジックというしかない。
つまり、このときから、日本国の財政規律はなくなったも同然になった。以来、バブル崩壊後の「失われた10年」の財政出動もあって、国債は大量に発行された。そして、ムダな公共事業が行われ、財政赤字は大量に積み上がっていった。


「国債の60年償還ルール」も根拠なし


 ところで、国債の償還には、「60年ルール」というものがある。これは、60年後に元本principalがすべて償還されればいいということである。
 60年償還ルールを採用すると、例えば、償還期限10年の長期国債の場合なら、10年たったときに全額の6分の1だけを現金で返済し、残りの6分の5は赤字補填making up a deficitのための借換債を発行してまかなうことになる。こうすると、完全償還までには、多額の利子の支払いが必要になるのは言うまでもない。
 国債を大量に発行すれば、それだけ借換債も多額になる。そして、借換債を返済するために、また新たな借換債を発行することになる。まさに、借金地獄である
 ところが、ではなぜ、「60年」なのかというと、その根拠はまったく判然としない。もともと国債は建設国債だったから、政府の解釈で、社会資本social capitalの耐用年数usable lifeを60年と決めてしまったからとしか言いようがない。つまり、道路や建物(社会資本)の耐用年数を60年とし、国債はそれに合わせて償還するという解釈だ。
 しかし、一般的に、社会資本の耐用年数は、平均で32年である。経済企画庁の資料によると、道路45年、港湾50年、JR22年、下水道34年、都市公園19年、学校施設・学術施設53年、社会教育施設・文化施設48年……などとなっていて、その平均は32年である。60年に達するものなど1つもない。
 それなのに、同じ政府内で解釈を変え、場当たり的に国債償還ルールをつくってしまったのである。償還年限は、「昭和59年度(1984年度)の財政運営に必要な財源の確保を図るための特別措置等に関する法律」により決まったものだが、根拠のないただの解釈にすぎない。会計学では、耐用年数が32年ならば、20年以内の償還が常識とされるが、そんなことは無視された。
 ちなみに、日本の地方債local government bondの多くは20年償還であり、諸外国でも20年から40年が多い。これらのことからみても、日本の60年償還は異常である。


「永久国債」は永久に償還されない国債


 このように、あらゆる点で矛盾を重ねたうえで、日本の財政赤字は積み上がってきた。だから、このままでは必ず破綻するのは目に見えている。
 そこで、もう過去は過去で仕方ないとし、今後の日本のために、この矛盾を解決するアイデアはあるのかということで、本書で提唱するが「永久国債」である。
 前記したように、これは無利子国債に似てはいるが、構想としてはもっとスケールが大きいものである。「永久」というのは、「永久に償還されない」ということで、その代わり「利子は永久に支払らわれる」というものだ。ただし、永久と言ってもそれは言語的な意味での「永久」ということではない。人間社会や国家の歴史から見て「永久」ということだから、その期間が何百年にわたると考えてもらえればいい。
 じつは、この永久国債に関しても、過去に何人かの識者が提言している。また、歴史をふり返れば、実例も存在するので、荒唐無稽なアイデアではない。
 むしろ、実現させる方向で考えていくことで、今後の日本のあるべき姿が見えてくるのではという観点から、本書は成立している。


本書の4人の執筆陣とその背景


 本書の執筆にあたったのは、以下の4人の方々である。
 まずは、国際問題評論家でこのペーパーバックスでの著書もある藤井厳喜氏。この藤井氏が中心になって、今回の執筆メンバーが集まった。ただ、藤井氏は、直接には永久国債の問題には踏み込まず、むしろ、最後にこの本を結論づけるかたちで執筆に参加した。
 同じようなかたちで参加したのが、日本金融通信の編集局国際部長の有澤沙徒志氏である。有澤氏は、ウォール街で17年のキャリアを持つ金融マンで『日本人はウォール街の狼たちに学べ』(中経出版、1998)という著書があるので、そうした観点から、いまの金融危機と今後の世界と日本を展望して、導入部を執筆した。
 本書のメインは、調所一郎と松田学氏である。
 調所氏は、幕末の薩摩藩で歴史に残る大改革を行った家老・調所笑左衛門広郷から数えて7代目の調所家の子孫である。調所氏の先祖・調所広郷は、後述するが、今回の永久国債のヒントとなる藩の負債の「250年賦」(債務の250年間払い)を起案・実施した人物であり、その子孫・調所一郎氏がその経緯を執筆したわけである。
 松田学氏は、財務官僚であり、2008年10月に『競争も平等も超えて—チャレンジする日本の再設計図』(財経詳報社)という本を上梓している。これは、日本版ニューディールともいうべき政策提言集であり、日本の向かうべき方向を示したものとしては画期的な論文である。
 したがって、本書でも永久国債という提言を受けて、その実現可能性feasibilityなどを含めてさまざまな見地から検証し、日本のあり方を示している。この松田氏の執筆部分が、まさに永久国債の研究であり、本書の核である。


歴史的に重要な2つの「永久公債」


 さて、本文に入る前に、永久国債の過去の例についてだけ触れておくと、その1つに、1749年以降に英国において発行された「コンソル公債」(Consoles)がある。これは永久年金公債であり、1980年代にサッチャー政権が償還するまで、およそ2世紀半も続いたという信じられない歴史がある。
 ただし、年金公債と銘打ってはいるが、当時のイギリスは戦争に明け暮れていたので、その戦費調達のための手段だった。それまでもイギリスでは多くの国債が発行されており、このとき償還期限のない3%国債に整理統合(consolidate)され、それで「コンソル」(consol)と呼ばれたわけである。「コンソル」とは、(人の悲しみなどを)「慰める」という意味もあるから、債権者に対して政府の「ごめんなさい」という姿勢が現れているとも言える。
 もう1つは、前記したように、江戸時代後期の薩摩藩で行われた債務返済の「250年賦」である。
 当時の薩摩は500万両という負債を抱えていたとされるが、藩の年貢歳入はわずか14万両前後。大坂の商人資本における金利は約10%、幕府資金を運用する上野寛永寺の貸出(いわゆる大名貸し)金利が5%だから、薩摩の全歳入は利子だけで消えるという状態だった。つまり、この債務は、ほとんど返済不可能impossible to repayといっていい。
 それを、調所広郷が「無利子で毎年2万両ずつ返し250年間で払う」としたのである。こんなことをしたら、債権者creditorsは怒るはずだが、この計画はうまく行き、その結果、薩摩藩は幕末の政治を動かす一大勢力足り得たのである。
 いずれにせよ、250年という年月は、英国政府がコンソル公債を最終的に償還するのに要した年数とほぼ一致する。つまり、歴史的に見て、永久国債は可能なのであり、いまの日本でこれをやれば、日本の将来展望が開ける可能性を秘めているのである。