教育[004]なぜインターナショナル・スクールに? 印刷

「なぜインターに?」と、きまって同じ質問をされた

 

「なぜ、インターに入れたんですか?」

 と、よく聞かれたものだ。

 世間話で子供の話になったとき、私の娘がインターナショナル・スクールに通っていると知ると、フツーの人は必ずこう聞いてきた。

 最初のころは、その理由をいくつか述べ、「これからは国際化の時代ですから」と私は言っていたが、あるときからピタリとやめた。というのは、これがじつに嫌みな答えだとわかったからだ。 

 もうひとつ、フツーの人が聞いてくるのは、「学校ではぜんぶ英語ですか?」と「家でも英語を?」ということだった。最初の質問は「はい」で、次の質問は「いいえ」だ。なぜなら、英語は娘しか話せないからである。もちろん、私はちょっとは話せる。しかし、それは聞くに耐えない、英語とは言い難いジャパングリシュだ。

 インターに入れたとき、3歳だった娘に最初に教えた英語は、「pee-pee」である。文にすると、「I wanna make a pee-pee.」。つまり、「おしっこがしたい」。これが言えないと、トイレに行けない。

幼稚園だから、これがいちばん重要な英語である。だから、日本の英語の教科書が「I am a boy.」や「This is a pen.」で始まるのは、根本的に間違っている。 

 それはともかく、インターに入れた理由を聞かれたとき、のちに私が答えるようになったのは、「じつは、親戚もインターだったんで、それで入れたんです」である。事実、そのとおりだったからだ。

 

従姉に勧められたセントジョセフ入学
 

 1987年の夏、私の従妹がやってきて、こう言った。

 「奈保ちゃん(私の娘の名前)、これからどうするの? 来年は幼稚園でしょ。あんた、なにかあてがあるの?」

 私も妻もまだそんな話をするのは早いと思っていたが、従姉は続けてこう言った。

 「ないなら、セント(セントジョセフ・インターナショナル・スクールのこと)のキンダ―に入れたら。私が頼んでみるから」

 この年の6月、従姉のひとり息子は、セントのハイスクールを卒業して、9月からアメリカのブラウン大学進学が決まっていた。 

 セントのことは、横浜の人間なら誰でも知っている。横浜には3つのインターナショナル・スクール(セントジョセフ、サンモール、YIS)があり、男女共学はYISだけで、セントは男子校、サンモールは女子校だった。ただ、これは昔の話であり、この頃はどちらも男女共学になっていたから、私の娘がセントに行くことは可能だった。

 しかし、インターナショナル・スクールといえば、在住外国人の子供や帰国子女が行く学校であって、私のようなまったくの日本人の子供が行くような学校ではない。 

 

従姉の息子のある特殊な事情

 

 ならば、なぜ、従姉の息子はセントに行っていたのだろうか? それは、特殊な事情で、彼が遺伝子の突然変異によるアルビノ(先天性色素欠乏症)として生まれてきたからだ。

 従姉は、その子を普通の子供と同じように育てようとしたが、日本の学校では差別されるではと恐れた。それで、それだけは回避しようと、ツテを頼ってセントに入れたのである。

 セントは彼を受け入れてくれて、彼自身も日本の社会のなかで障害を意識して育つのと比べたら、ずっと自由に、すくすくと育った。成績もよかった。だから、ブラウンにも受かった。

  ちなみに、彼はその後インディアナ大学の大学院で言語学のPhD.を取り、日本に戻って、いまは法政大学で助教授をやっている。

 「セントはいい学校よ。日本の幼稚園に入れるなら、セントのキンダ―のほうが絶対いいから」

  と、従姉は言った。

 

「パパが生きていたら大反対したでしょうね」と母

 

 8月の初め、妻は娘を連れてセントに面接を受けに行った。このとき、面接をしてくれたのは、当時学長補佐をしていたジェフリー・ミラー氏で、彼は日本語がペラペラだった。

 私は、てっきり英語の面接だと思い心配したが、帰ってきた妻が「全部日本語だった」と言うので、なんだそんなものなのかと思った。

 面接から数日で、娘の入学が決まった。そして、9月から来てくださいというので、娘は普通の日本人の子供の年齢より早く、幼稚園に通うことになった。

 この年、娘と一緒にキンダ―に入ったのは5人だった。ひとつ上のクラスには、故・三船敏郎さんの娘の美佳ちゃんや、その後モデルとして活躍する鮎川ナオミ(ナオミ・ウェイト)ちゃんなどがいた。 

 娘がセントに行くときまったとき、母はこう言った。

 「パパが生きていたら大反対したでしょうね。日本人なのになんだって」

 私の父は、娘の誕生の1ヶ月後、お食い初めをした日の夜に2度目の心臓発作で倒れ、そのまま死んでいる。初孫の誕生を楽しみしていたが、まるで入れ代わるようにあの世に逝ってしまった。

 それにしても、母は横浜の人間で、戦前の横浜英和女学校を卒業したにもかかわらず、父と同じようにインターナショナル・スクールは日本人が行くところではないと思い込んでいた。

 

半年で英語のほうを先に話すようになった

 

 セントは、娘を入れてみると本当にいい学校で、なにしろ、クラスに生徒は5人だけというのがよかった。もちろん、学校内は全部英語だが、まだ日本語も十分でない年齢の子供にとっては、母国語と外国語の区別などあまり関係ないように見えた。

 最初はとまどったと思うが、半年もしないうちに英語のほうを先に話すようになった。 

 英語で大変なのは、親のほうだった。私は、あわてて英会話のテープを買いこみ、それまで毎週のようにしていた徹夜麻雀を控えてテープを聞き、妻と2人で根岸ベースのアメリカ人家庭に英語を習いに通った。

 しかし、いまも英語はダメだ。完全に大人になってから習う外国語は、どうしても日本語の回路を通ってインプット、アウトプットされる。だから、ネイティブのようには絶対にしゃべれない。

 結局、いまでも私は英語が苦手だ。

 

かなりカッコをつけた私のコメント

 

 さて、ここで、前回の[003]で紹介した雑誌『UPDATE』に話を戻し、私たち一家のインタビューコラムを再録しておきたい。

《日本の学校へは編入できないことを承知の上で、子どもを幼稚園からセントジョセフへ通わせている山田順、佐保ご夫妻。奈保ちゃん(5歳)は、一昨年9月に入園した。

 きっかけは? 「親戚の子どもが通っているのを知っていたのが消極的理由です。積極的な理由はふたつあります。まず、英語がしゃべれるようになってほしかった。しかも自然に。自分達が中学から学んできたにもかかわらず話せないのは、語学生活の初めに英語にふれていなかったからだと思うのです。それに今後ますます、英語は必要になるでしょうから。次の理由は、不得意の科目を無理やり勉強させて、平均的人間を作ろうとする日本の教育への疑問からです。自分の子どもには、その人間の長所をよいり伸ばせる教育を受けさせたかった。自分のアピールできる面を知っている人間は、人生に対して積極的になれますから」

 奈保さんの反応は? 「最初は嫌がっていましたが、そのうちに右と左の感覚を“ライト、レフト”で覚えたように、体全体で吸収しているようですね。私達も娘の友達の外国人の家を訪れて、英会話のレッスン中です。

 年間の学費は約100万円ですが、日本の学校へ通いながら家庭教師、塾に費やすのとほぼ同じ金額になるのではないでしょうか。それに金銭よりも質を重視したいですからね」》 

 いま読み返すと恥ずかしいが、私はなんてカッコつけて答えるのだろう。「平均的人間を作る日本の教育」だのと、大上段に構えて述べているのは、若気の至りと言うしかない。