■『3LDKのプリンセス 川嶋紀子さんの魅力のすべて』(1) 印刷

(1990年6月20日、ブレーン出版)

     

 

 平成元年(1989年)8月26日のことはよく覚えている。この日の朝、編集部で朝刊を開くまで、秋篠宮殿下が婚約されるなど、私は夢にも思わなかったからだ。

 しかし、それは事実で、それから3週間後、9月12日に開かれた皇室会議において、川嶋紀子さんとの婚約は全会一致で可決された。

 当時、私は『女性自身』の編集部にいたが皇室担当ではなかった。しかし、平成改元後初のこの慶事に国民は熱狂し、限りない祝福で迎えたので、以後、何度かお二人の記事の編集にかかわった。川嶋紀子さんは、殿下とは同級生で、一家は学習院大学教職員用の共同住宅で暮らしていたので、マスコミは「3LDKのプリンセス」と呼んだ。

「紀子さまフィーバー」は、翌年6月29日の「結婚の儀」に最高潮に達した。

本書は、「ブレーン出版」の編集部から頼まれ、お二人のご結婚までの経緯をまとめたものだが、いま読み返しても新鮮だ。ここでは、本書の「ほぼすべて」を掲載する。

 

 

●プロローグ

 この本は、平成2年6月29日、礼宮妃となる川嶋紀子さんの魅力を、あらゆる角度から検証したものである。

 美智子皇后につぐ“庶民のプリンセス”として、ここ1年ほど、川嶋紀子さんは国民から熱い眼差しを注がれ続けてきた。昭和天皇の崩御によって訪れた平成という新時代。その新時代の最初で最大の話題の主が、川嶋紀子さんといっても過言ではないだろう。

 平成元年秋、紀子さんと礼宮さまの婚約が決定されるまで、まさか、こんなシンデレラ・ストーリーが新時代に待っていようとは、ほとんどの国民は予想さえしていなかった。

 もちろん、私ども皇室関係のマスコミ人の間では、礼宮殿下の意中の人として、紀子さんの存在はかなり以前から知られていた。

「もし礼宮さまが結婚されるとしたら、それは紀子さんをおいて他にいまい」と、誰もが確信に近い思いでいた。しかし、この確信が現実となるのは、もっと先のことだろうと漠然と思っていたのである。

 ところが、現実は予想を上まわってしまった。昭和天皇の喪中期間中であるという事実も、天皇家の長男・浩宮さまのお妃選びが決定していないという事実も、お2人の愛には障害とならなかったのである。

 これは、かつての皇室のイメージでは考えられないことだった。

 礼宮さまと紀子さんの婚約は、そうした意味で、まさに平成という新時代にふさわしいものだったのである。そして、その原動力がお2人のキャンパスで育んだ愛となれば、これはもう革命的な出来事でもあった。

 礼宮さまを含めた皇室を、そこまで踏み切らせた川嶋紀子さん。

 その魅力とは、なんなのか?

 いま、私どもが日ごろの取材で集めた話をベースとし、各マスコミの記事を参考にして、“美しきプリンセス”川嶋紀子さんの実像に迫ってみよう。

 若き女性なら必ず一度は夢みる“シンデレラ・ストーリー”。それは、どのように始まり、どのように完結していくのか。この平成初のプリンセス誕生ドラマが、少しでも身近に感じられたら、望外の幸せである。

 おめでとうございます、川嶋紀子さん。

 おめでとうございます、礼宮殿下。

                                          平成2年6月吉日

 

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●目次

プロローグ

PART 1――嫁ぐ日まで、紀子さんが歩んだ“プリンセス・ロード”

♥朝日新聞のスクープで始まった“紀子さん報道大フィーバーと、その裏側

♥庶民のプリンセスは大人気。スーパーで大根のお買い物。毎朝かかさぬジョギング

♥“思い出の渚”油壷でお別れデートを!

♥紀子さんが礼宮さまに贈ったナマズの婚約指輪と、別れの涙

♥突如、報道された川嶋家へのヤッカミと、紀子さんイジメ!

♥皇后さまの「宮廷革命」。お2人のご婚約は、革命が着実に実を結んだ結果だった

♥礼宮さまと離れ離れの日々。父祖の地・和歌山を訪れ、祖父の墓に結婚の報告を!

♥絹地の巻物3巻、清酒6本、雌雄一対の鯛。これが天皇家の正式結納“納采の儀”のすべて

♥美智子皇后の紀子さんへの『嫁姑愛』――ご自分の帯をプレゼントされた!

♥最後の庶民生活を心ゆくまで。家族旅行も楽しみ、ついにむかえた結婚の儀

 

PART 2――紀子さん、23年間の愛の履歴書

♥両親も“キャンパスの恋”から結婚を。誠実な学者一家である川嶋家のルーツ

♥日本語がぜんぜん話せなかった帰国子女。でも、そのガンバリ屋ぶりは目をみはらせた

♥学習院に通うお嬢さま。同級生や恩師達が語った“素顔の紀子ちゃん”

♥恩師の国語の先生が明かす“紀子さんと川嶋家の秘話”

♥特技はなに?で披露した手話。ボランティア活動に関心も

 

PART 3――礼宮さまとの“キャンパスの恋”のすべて

♥平成元年9月12日の皇室会議で正式に婚約が決定。プロポーズは信号待ちで!

♥礼宮さま・紀子さんばかりではない。いま思い出される〈4つのロイヤル・ロマンス物語〉

♥礼宮さまのひと目ぼれで始まったキャンパスの恋の物語。出会いは大学構内の書店

♥紀子さんは“キャンパスのマドンナ”。礼宮さまはマドンナ争奪戦の恋の勝利者

♥愛車ワーゲンの助手席に紀子さんを乗せドライブ・デート、葉山の海で初めて両陛下とご対面を!

♥初めて離れ離れに! 紀子さんが“涙を流す”ほどつらかった礼宮さまの英国留学

♥皇室離脱を賭けた恋。“結婚できないのなら皇室を離れる。紀子を連れていってイギリスで一緒に暮らす”

 

PART 4――“3LDKのプリンセス”紀子さんに学ぶ――お嬢さま学

♥いつも笑顔を絶やさずに! 紀子さんスマイルの秘密を発見

♥学習院女子部の“お嬢さま”教育。当り前のことを当り前にできる女性が、現代では希少価値

♥塾には通わせず、テレビは置かない。マンガや雑誌は、まず読むことはなかった。両親は、けっして子供に手をあげなかった

♥知的教養だけではダメ。行動の教養を身につけてこそ本当の“お嬢さま”

♥むしろ質素な紀子さんのファッション。お下がりの服でも喜んで着る。ブランド品とは無縁

♥天皇家の一員になるために必要な知識の数々――紀子さんが受けた“お妃教育”の中身とは?

 

PART 5――紀子さんの愛をあなたに! あのとき紀子さんはこう語った――全語録

♥万人への愛

♥礼宮さまとの関係

♥初恋だった

♥愛する苦しみ

♥結婚について

♥嫁ぎゆく女心

付録:たちまちトレンディーになった目白通り。“プリンセス・ストリート”完全ガイド

 

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●PART 1:嫁ぐ日まで、紀子さんが歩んだ“プリンセス・ロード”

 平成2年6月29日をもって川嶋紀子さんは親王妃に。こ成婚と同時に戸籍から名前は消え、皇統譜の礼宮さまの欄に次のように記された。「平成二年六月二十九日川嶋紀子と結婚の礼を行う」――ここに、正式にプリンセス誕生。まさに、平成のシンデレラ・ストーリーの完結である。

 

◇朝日新開のスクープで始まった“紀子さん報道大フィーバー”と、その裏側

『礼宮さまご婚約固まる 同窓・川嶋紀子さん 両陛下、両親とお会い』

朝日新聞平成1年8月26日、土曜日の一面トップに載った大見出しを見て、各社の皇室担当記者は仰天した。

 もちろん、各マスコミは、一般読者より早く朝日の記事をキャッチしたが、それも午前3時頃。全国紙は、お互いの特落ちを警戒するため、大阪で朝刊遅版の交換をする習慣があるが、まさにそのとき。朝日のスクープは最終版に載り、もう他社は手が出せない状況だった。

 なぜか、朝日新聞の単独スクープとなった礼宮さまの婚約。ほとんどすべての皇室関係ジャーナリストが、お2人の交際を知っていただけに、「まさか」と言ったきり開いた口がふさがらない、とはこのことだった。

 当然、すべての皇室関係記者はたたき起こされ、深夜の情報確認作業が開始された。まずは、宮内庁。ところが、この日は土曜日とあって職員は登庁せず、さらに宮尾磐、宮内庁次長と中野公義秘書課長も金曜日(25日) から休暇をとっていた。当然、宮内庁長官藤森昭一氏のところへ、各社から問い合わせが殺到した。しかし、返ってきた答えは「ノーコメント」。とりあえず、 長官と山本悟侍従長は、この朝、天皇、皇后両陛下が那須へご静養に行かれるのを見送るため、御所に上がる予定で、それを待つこととなった。

 とはいえ、待っているだけではすまないのがテレビ。NHKは午前7時のニュースから、朝日と同じトーンで“礼宮さまご婚約”を伝えたのだった。

 いま、あのときの騒ぎをふりかえってみると、まったくもって、どうしてああなってしまったのかと改めて思う。

 情報が入った朝日新聞をのぞいては、各マスコミとも、こんな時期にそんなことは起こりえないと信じていたからだ。

その理由は、整理してみると、およそ次の4ポイントだった。

1、昭和天皇の喪中期間中であり、そんなときに慶事の発表はありえない。

2、礼宮さまはまだお若い。23才。結婚を急ぐ年齢でもない。

3、しかも、礼宮さまはまだイギリス留学中の身。お相手の川嶋紀子さんも、まだ大学院生になったばかり。

4、兄・浩宮さまをさしおいて、弟君が先に結婚なさるとは、皇室の伝統から考えてありえない。

――以上、すべて、これが常識といえる範囲の考えだが、この常識がいとも簡単に破られてしまったのである。

 思 えば礼宮さまという方は、皇室の常識が通用しない“自由気まま”なところがあった。そのせいで、各社とも『いずれは川嶋紀子さんと』と思って記事は用意し ていたが、少なくとも『今年はない』と考えていた。正直いって、兄君・浩宮さまのお妃選びの方がマークすべき大問題であり、特に、天皇家においてはご兄弟 が順序を逆にして結婚された例がないので、マーク外でもあったのだ。

 ちなみに、明治以来、皇族の間で弟が兄君よりも先に結婚されたという例は、ただ一例がある。三笠宮家三男の高円宮さまが次男の桂宮さまより先に結婚されたケースだ。しかし、まさか、天皇家でそれが起ころうとは、やはり常識が邪魔をして思いつかないのだった。

 いわゆる皇室ジャーナリスト、評論家の見方も、おおむねこの点を強調し、お2人の仲が進んでいるという情報をもってしても、答えは否定的であった。さらに、紀子さんがまったくの庶民であることで、「礼宮さまが望まれても川嶋家は固辞する」と言いきる人もいたのである。

 ところが、一人、元東宮侍従の浜尾実氏だけは、ある週刊誌上でこんな考えを表明していた。

「礼 宮さまが望まれた方ならば、両陛下は結婚をお許しになると思います。川嶋さんとの結婚について、格式が不釣り合いだと、両陛下が反対されることは考えられ ない。結婚にかかる費用は宮廷費でまかなわれますから財産なども問題にならない。兄よりも先の結婚ということも、従兄である高円宮さまは兄の桂宮さまより 先にご結婚されましたし、皇室にも前例があります。これも問題外です」

 まさに、この浜尾氏の考え通りに事は進んだのである。

 朝日のスクープは、岸田英夫編集委員をキャップとする4、5人の社会部皇室取材班によってなされた。昭和62年 の新聞協会賞をとった『天皇陛下、腸のご病気』という記事も、このチームによる努力の成果。いま最も皇室記事に強いというこのチームが、「礼宮さまが ちょっと変だな」と感じはじめたのは、筑波学園都市で開かれたナマズの研究発表のときだったという。このとき英国から帰国されていた礼宮さまは、いつも以 上に報道陣をさけているように見えたというのだ。

 そんなおりの8月25日、“川嶋家の両親が赤坂御所に招かれた”という情報が朝日にもたらされた。情報といっても当日張り込みをしていたわけではないから、だれかしらのニュースソースがある。しかし、これは朝日の秘密。

 ともあれ、礼宮さまのこと以外で川嶋家が御所にあがるはずがない。しかも、御所に招かれること自体が、異例中の異例のことだった。朝日はことここにおよんで、お2人の婚約の確定を打ったのである。

 さて、こうして朝日のスクープが出た後、藤森長官は26日午前11時から、ようやく取材に応じて、こう言った。

「けさ午前9時ごろ赤坂御所にうかがって、天皇、皇后両陛下から礼宮さまと川嶋紀子さんの結婚について、公式な手続きをとってもらいたい、という話を承った」

 一方、このとき、東京・目白の学習院大学構内にある学習院第5共同住宅前には、すでに100人を越えるカメラマンと取材陣が集まっていた。

 美智子皇后以来の庶民のプリンセス。3LDKの官舎住まいの紀子さんの姿を取材しようと、その数は時間を追うごとに増え続けていった。しかし、この日と翌27日、とうとう紀子さんは報道陣の前に姿を現わさなかった。

 紀子さんと父親の川嶋辰彦氏(50)が姿を見せたのは、8月28日になってからだった。台風の雨が去って太陽が顔をのぞかせた午後、いっせいにフラシュがたかれるなかを、2人は肩を並べてゆっくりと、大学本部に通じる1本道を歩いた。

 紀子さんははにかむような笑顔を浮かべ、辰彦氏も娘をかばうように寄り添う。紺地に白の水玉模様のワンピースに包まれ、色白の紀子さんは、じつに清楚だった。

 大学本部内での共同インタビューで、辰彦氏は慎重に言葉を選んだ。

「まだ皇室会議を経ていないので……」と、笑顔で答えた後、礼宮殿下の印象をきかれると、

「父親の口を通して申し上げるのは野暮というものでございまして……。いずれ、その時が来ましたら、本人から……」

 と言うばかりだった。

 結局、紀子さんはこのときひと言も喋ることなく、終始笑みを絶やさないまま席を立った。

 異例ずくめの婚約劇。天皇家のプリンスを虜にした紀子さんの魅力とはなんだろう。席を立った紀子さんの後ろ姿を見送りながら、そんなことを漠然と考えた。

 ともあれ、このときから、3LDK住まいのお嬢さんは、マスコミ注視のなか、プリンセスヘの正式な階段を登っていったのである。

 

◇庶民のプリンセスは大人気。スーパーで大根のお買い物。毎朝欠かさぬジョギング

 

「あっ、紀子さんだ」

「そうよ、礼宮さまの……」

 8月28日の記者会見以来、紀子さんの人気はすさまじいものになっていった。どこへ出かけても、何十人という報道陣がついてまわるから、たちまち足を止めてひと目紀子さんを見ようという人垣ができた。

 皇室会議を経てからでないと婚約は正式なものにならないとはいえ、それは単に手続き上の問題。紀子さんはプリンスが選んだシンデレラであるのは間違いないのだから、人々は争って紀子さんの姿を求めた。

 紀子さんが住む学習院共同住宅前には、24時間体制でカメラマンが待機し、テレビのクルーは紀子さんの一挙手一投足をビデオにおさめようと、常時はりついていた。

 その結果、紀子さんの日常生活は、そのほとんどが報道されることになった。ちょっとした買い物姿から、歩いて数分の構内に出かける姿まで、それこそ細大もらさず、カメラが追い続けた。

 この紀子さんフィーバーに最も心を痛めたのは、礼宮さまであったろうが、紀子さん自身も偉かった。それは、どんなに報道陣がつめかけようと、あるがままの日常生活を少しも変えなかったからである。

 特筆すべきは、日課である早朝のジョギング。少しぐらいの雨が降ろうと、紀子さんは、Tシャツに紺色のスエットパンツ姿で、大学構内を走った。出発は、たいてい午前8時前。約30分をかけてのトレーニングは、同級生によるとダイエットを兼ねたものだという。

「『な ぜ走るの?』と聞いたら『ただ好きだからよ』と言っていましたが、『すぐに太ってしまう体質』ともらしていたから、シェイプアップのためだと思います」 と、ある同級生。また、別の同級生も、「彼女はお菓子が大好きなんです。それでつい食べすぎてしまうらしく、その分、走って体重をコントロールしているん です」と言った。

 ともあれ、「やると決めたらとことんやる人」という級友達の証言どおり、紀子さんは毎朝走り続けた。礼宮さまのもとへ嫁ぐ日まで、体調をこわさずにすこやかにいたい、という紀子さんのジョギング姿は、かえって紀子さんフィーバーを過熱させたといってもいいだろう。

 ダイエットといえば、9月3日、赤坂御所で行なわれたパレスヒルズ・テニスクラブの集まりではこんなことがあった。このテニスクラブは礼宮さまが主宰する集まりだが、午前10時から午後6時まで、紀子さんは何も食べなかったというのだ。

「お昼にメンバー各自で、マクドナルドのメニューを注文することにしたんですが、紀子さんはミルクだけ。礼宮さまが、いつもの“ビッグ・マック”を注文なさったのとは対照的でした。

 テニスが終わってからのパーティーでも、ビールをちょっととウーロン茶を飲んだだけ。用意されていたポテトチップやお菓子類は口にしなかった」

 と、あるメンバー。

 どうやら紀子さんのダイエットは本物と、これを聞いてちょっぴり心配した紀子番記者も出る始末だった。

 ジョギング中のエピソードとしては、記者やカメラマンが感激したことに、こんなこともあった。

 それは、確か9月14日。皇室会議で正式婚約が整って二日目の朝だった。いつも通り大学構内を走る紀子さんに、あるカメラマンが突然蛮声を張りあげた。

「紀子ちゃーん!」

 未来のプリンセスに、紀子ちゃんはないだろうと冷や汗もので見ていると、紀子さんはこちらを見やって足を止めた。それから、少しも不快な顔もせず、ニッコリとお辞儀をしたのである。

 きっちり角度45度のさわやかなお辞儀。

 もちろん、カメラマン達は勇んで連続シャッターを切った。この様子に、報道陣達が感激したのも無理はない。

 もはや、この頃、紀子さんは報道陣にとっても、国民にとっても、スーパーアイドルとなっていた。

「あれはすごい。美穂や静香の比じゃないよ」

 と、日頃芸能人を撮っているある芸能誌のカメラマンは、感心することしきりだったという。

 紀子さんのジョギングが話題になるとともに、紀子さんフィーバーは思わぬ副産物も産んだ。それは、紀子さんと共に走る美人S. P.(security police)は誰? という視聴者からの関心で、2、3の雑誌は特集まで組んでSPの素顔を紹介した。

 まだ婚約の段階とはいえ、紀子さんは準皇族。一般の人間が容易に近づくことはできないのだ。そのため、警視庁警備部警衛課から派遣されたのが、2人の女性SP、婦人警官の中井佳代さん(27)と川島五輪子さん(25)だった。

 2人は現代女性らしく、ファッションセンス抜群で容姿も端麗だったから、報道陣の間でも評判になった。しかし、改めてその仕事の実態を知ると、表面上の華やかさとはかけ離れた厳しい現実が浮き彫りになった。

 警察関係者によると、

「警護というのは、警護される人間が朝自宅を出て夜自宅に戻るまでの間を指します。ですから、警護される人間より当然スケジュールはきつくなり、特に紀子さんの場合、分刻みのスケジュールが事前に通達されてきますから、少しも落ち着く暇はありません」

 となり、さらに、高度な資格も必要とされるという。

 現在、警視庁に婦人警官は約1400人いるが、このうち要人の警護に当る特別SPは20人あまり。身長160センチ以上、合気道有段者、ある程度の語学力、そしてピストル中級(23メートル離れた標的に5発撃って70点以上獲得)の資格が、最低条件。もちろん、容姿端麗も不可欠とあっては、この2人はエリート中のエリートなのだった。

 紀子さんの朝のジョギングに合わせ、毎朝7時半ごろ、中井さんがトレーニング姿で目白署からやってくると、時々、報道陣から声がかかることがあった。しかし、その声に中井さんは答えたことはない。ただ、「今日のスタートはなん時?」といった声には、指で8の字を描いてサービスする精神もあって、報道陣の人気はますます高まったのを付記しておく。

 さて、話を少し前に戻して、婚約スクープ以後の経過を追ってみよう。8月末のあの日以来、テレビ、一般週刊誌、女性週刊誌はこと細かに紀子さんの行動を追い続けた。

 内定発表の翌日、8月27日の小さな出来事をいち早く報じたのは『女性自身』だった。この日、NTTの職員が川嶋家を訪れ、電話線を1本新設したのを見逃がさなかったのだ。

「美智子さまのご婚約中の前例からいっても、これは赤坂御所と川嶋家を結ぶホットライン」という皇室記者の解釈を載せ、さっそく、“婚約直前、深夜の愛の長電話”という記事にしてしまったので驚いた。若い2人が、ホットラインで将来の生活設計を話し込む。そんな場面がないはずはなく、女性誌らしいキメ細かい視点ともいえた。

 当然、ライバルの『週刊女性』も負けてはいない。9月1日、午後3時すぎ。自宅を出た紀子さんと母・和代さんの車を追跡。新宿区の生協で買い物をすませた紀子さんの姿をカメラに収めたのだった。

 このときの紀子さんは、髪をアップにして、白い清楚なブラウスに流行の花柄プリント姿。両手にスーパーの袋を下げて、まさにごく普通のお嬢さん。記者はしっかりと買い物の中身までチェックしていて、紀子さんが買ったのはヨーグルト、牛乳1リッ トルパック、納豆、スナック菓子……などと記している。そして、スーパーを出た紀子さんの手さげ袋から、青々とした大根がのぞいていることに感動するの だった。その様子は『スーパーで大根のお買い物』というタイトルで報じられたが、おそらく本当のプリンセスになってしまったらこうした姿は2度と撮影できないだろう。

 紀子さん人気は、こうしてわずか1週間でピークをきわめた感があった。以下、その後の紀子さんの日常を、正式に婚約が決まった9月12日まで記してみる。

◎9月3日(日):赤坂御所内でパレスヒルズ・テニスクラブの集まりに参加。礼宮さまとペアを組まれ、ダブルスの試合を楽しむ。

◎9月4日(月):午前11時半すぎ、両親と一緒に新宿駅西口の小田急デパートでショッピング。帰りに板橋区の都立養育院老年学情報センターで本を借りる。

◎9月5日(火):外出せず。

◎9月6日(水):朝のジョギングに外出しただけ。

◎9月7日(木):午前10時前、母・和代さんの運転する車で小田急デパートヘ。2階の婦人靴売り場で、淡いベージュのハイヒールなど2足を買う。9月11日の23才の誕生日の母からのプレゼントとの声。

◎9月8日(金):午前7時半すぎからの恒例の朝のジョギングだけ。

◎9月9日(土):午前中、目白駅前の美容室に行きヘアをセット。その後、いったん自宅に戻り、午後、赤坂御所に上る。夕方からは草月会館ホールで行なわれたチターの演奏会を鑑賞する。

◎9月11日(月):23才の誕生日。

 

◇“思い出の渚”油壷でお別れデートを!

 

 平成1年9月12日、紀子さんと礼宮さまが待ちに待った皇室会議の日がやって来た。

 この日、議長として宮内庁に入る海部総理はやや緊張した面持ち。「国民の皆さまとともにお喜び申し上げたい」と感想を述べると、足早に特別会議室に入った。

 会議は午前9時から。礼宮さまの婚約承認以外の案件はなく、全員一致で結婚が決定。各議員が議決録に署名すると、会議はわずか33分で閉会した。

 “ご婚約決定”の知らせを受けた川嶋家では、さっそく御所へ上がる準備。昼すぎ、午後0時52分に、紀子さんが自宅前に姿を見せると、朝からの曇り空が一瞬にして消え、うそのような青空が広がった。その空にはヘリコプターが舞い、待ち受けた報道陣の数は優に300人を越えていた。この日のために顎ヒゲを剃り落とし髪もサッパリした父・辰彦さんと、母・和代さん、そして紀子さんと弟の舟くん(16)は、報道陣に軽く会釈。思わず、「おめでとう」と歓声が湧き起こった。

 濃紺のワンピースに白い手袋があざやかな紀子さんは、まぶしいくらい美しい。カメラのシャッター音にはにかむ笑顔は、じつに初々しく、さわやかだった。

 ゆっくりと歩み、落ち着いた動作で車に乗りこむと、両陛下をはじめ天皇ご一家が待つ赤坂御所へ。天皇ご一家への挨拶をすませた後は、礼宮さまとお2人で各宮家への挨拶まわり。緊張する紀子さんへの心遣いで、この間、礼宮さまはひと言ふた言と紀子さんに話しかけ、お2人は笑顔を絶やさなかった。

 そして、その笑顔が、全国のテレビ画面を通じて流されたのが、午後3時からの婚約記者会見だった。

 もはや知らない者がいなくなってしまった“信号待ちのプロポーズ”から、紀子さんがか細い声で告白した“はい、初恋の人でした”発言まで、会見はキャンパスの恋の成就にふさわしい雰囲気となったが……。

 この会見でのお2人の告白は、とりあえず次章にゆずり、ここでは、先へ先へと紀子さんのプリンセス・ロードを急いでいこう。

 正式婚約が整ってからというもの、紀子さんの笑顔はますます美しくなった。

 9月16日、午前10時半すぎ、目白駅前の喫茶店『カフェ・ラ・ミル』にクラスメイトと2人 で入って談笑している姿を見たときは、「あっ、この顔、この笑顔」と思わずジーンと胸に来るものがあった。紀子さんは、アイスティーを注文し、時おりそれ を飲みながら、クラスメイトとじつに楽しそうに語り合う。その楽しそうな表情に“私、婚約しているの”という文字が浮かびあがって見えたのだ。女性ならわ かると思うが、婚約期間中の笑顔ほど素晴らしいものはないという。紀子さんの笑顔はまさにそれで、それは何の翳りもない透明な笑顔だった。

 この紀子さんの笑顔の輝きを再び目の当りにしたのが、9月22日の湘南・油壷。

 神奈川県三浦市にある『油壷マリンパーク訪問』は、礼宮さまにとって英国から一時帰国されて以来の念願だったという。

 礼宮さまは、この油壷へ学生時代から何度も足を運んでおり、イルカやアシカ達とふれ合い、ご自身の研究テーマであるナマズを観察するのを何よりの楽しみとしていた。この油壷へ、この日紀子さんを連れてお出かけになったのである。

 婚約以後、お2人で遠出するのは、これが初めて。すでに9月26日に留学先の英国へ戻るスケジュールが決定していることもあって、この油壷行きは、お別れデートともいえるものだった。

 思えば紀子さんは、婚約会見で礼宮さまに魅かれた点を「魚類の研究に熱心なお姿」と言っていた。

 そして、もうひとつ、この油壷には、お2人の愛の秘密が隠されていたのである。それは後に詳しく述べるが、4年前、お2人が初めて交際をスタートさせた地がここだからなのだ。4年前のこのとき、礼宮さまは紀子さんを連れてごく自然にご両親である両陛下に引き合わせた。そして、お2人でこのマリンパークの展望レストランで昼食をとった。そのとき、後から来られた両陛下は、笑顔で紀子さんに会釈されたという。

 さて、この日、お2人は昼前に車で到着。まず、水族館から見学を開始された。パールーンという珍しいナマズのいる淡水大水槽へ直行すると、「ずいぶん大きくなりましたねえ」と、礼宮さま。2年前、まだパールーンが赤ん坊のころを知っている礼宮さまは、紀子さんにしきりに解説、紀子さんはあの笑顔でそれにひとつひとつうなずいていた。

 そして、思い出の展望レストランへ。

 お2人はビールで乾杯し、お2人してカレーライスを注文された。ただ、お2人のカレーの種類は違っていて、礼宮さまがカツカレー、紀子さんはシーフードカレー。ただし、ともに980円だった。

 昼食後は、室内海洋劇場でイルカとアシカのショーもご見学。館内には一般の入場者も大勢いて、

「わあ、テレビで見た通りのきれいな方」

というママさんの声や、

「あのお姉さんがお姫さまなの」

 という幼稚園児の声も聞こえた。

 朝まで残っていた雨があがった快晴の秋の一日。この“思い出の渚”でのデートは、ロイヤル・カップルが、その似合いの姿を存分に見せてくれた素晴らしい一日であった。

 

◇紀子さんが礼宮さまに贈ったナマズの婚約指輪と、別れの涙

 

 いま、紀子さんのプリンセス・ロードを語るときに忘れてはならない、とっておきのエピソードがある。

 それは、紀子さんが礼宮さまに贈った“ナマズの婚約指輪”。

 この指輪ほど、お2人の愛を象徴したものは、他になかった。

 婚約という愛の成就のときがあれば、結婚までには別離のときもある。

 平成1年9月26日、礼宮さまは予定通り留学先の英国へ戻られたが、このときの取材で発見されたのが、このナマズの指輪だった。

 発見したのは『女性自身』誌。成田空港を旅立たれる殿下のくすり指を注視した『女性自身』のカメラマンは、思わず叫んだという。

「アレッ!あの指輪、ナマズの形をしている」

 左手くすり指といえば、いうまでもなく婚約指輪。それが、ナマズの形をしているとは、こんなユニークな話はない。当然、『女性自身』はキメ細かい取材をし、さらに『女性セブン』誌もこれに追随する記事を載せた。

 いま、両誌をもとに、お2人の別れのときを再現してみよう。

 礼宮さまがロンドンに発つというその日、紀子さんは、淡いピンクのスーツ姿で自宅を出た。このときまで、紺が定番だった紀子さんのファッションに、このあざやかなピンクは別れの切なさを隠すかのように思えた。紀子さんが赤坂御所に到着したのは午前9時40分。この後、約1時間にわたって天皇・皇后両陛下を交えて、礼宮さまと別れを惜しんだ紀子さんは、礼宮さまの出発を玄関で見送ることなく、自宅に戻った。

 礼宮さまは、両陛下のお見送りを受けて、成田空港へ。

 一度自宅に戻った紀子さんは、午後2時、今度はベージュのスーツに着替えて、晴海埠頭へ。『東南アジア青年の船』の出航式に参加するためだった。紀子さんは昭和62年、この船に参加、アジアヘの視点を大きく開いている。出航式には当時の仲間が顔を出しており、紀子さんはその輪の中に入っていったが、このとき、左手くすり指には、それまでなかったエンゲージリングが輝いていた。

 直径約8ミリのピンクのパールの両側に、約0.5カラットのダイヤをちりばめた指輪。

「おそらく美智子さまが、将来の可愛いお嫁さんのために贈られたものでは。パールの指輪は、美智子さまがお若いときになさっていた記憶がございますから、多分、ご自分のものを贈られたのではないでしょうか。

 お見うけしたところ、とても礼宮さまのお小遣いで買えるものではないようですから」

 と、ある宮内庁関係者は言った。

 一方、成田空港での礼宮さま。

 紀子さんと同じように左手くすり指に、ナマズのエンゲージリングをして、機上の人となられたのであった。

 そう、お2人は心をこめて指輪を交換していたのである。礼宮さまが母君の思い出の品なら、紀子さんは、殿下が研究に熱中しているナマズをデフォルメ。

 女性誌の取材によると、紀子さんはみずから発案、具体的なデザインまで考えて特別注文したという。

「ナマズをモチーフにした指輪をと伺ったときは、ちょっと驚きましたね」

 と、台東区東上野の『ベアー』のジュエリー・チーフデザイナー、日向晴海さんは、女性誌記者に答えている。

 紀子さんが日向さんに話を持ち込んだのは、礼宮さまが発たれる10日ほど前。日向さんは川嶋家に出向き、紀子さんから直接デザインの注文を受けた。紀子さんは自分の部屋から分厚い魚類図鑑を持ち出し、日向さんに詳しく説明した。

「ナマズが指に巻きついている感じで作ってほしいんです」

と、紀子さん。紀子さんは自分なりのプランをハッキリ持っていた。しかし、難点がひとつだけあった。それは、ナマズといえばヒゲ斜つきものだったが、それをどうするかだった。

「ヒゲの感じを生かしたい」

 という紀子さんに、指輪にヒゲが生えたら衣服にひっかかり厄介という日向さん。そこで、2人が合意した結論は、“ヒゲは体にうまくくっついている感じに”というものだった。デザイン画を描き、3日後に再び川嶋家を訪れて決定。素材はプラチナということになった。サイズは14号。値段は30万円前後と『女性セブン』誌は推定している。

 日向さんは、この『女性セブン』誌に紀子さんの印象をこう語っている。

「品があるのに気さくな感じで、まわりの人をくつろがせる、とても魅力のある方ですね。最初お伺いするときは緊張して参りましたが、紀子さんとお会いしたとたん、すっと緊張がほぐれました」

 日本とイギリス。離れ離れになったお2人だが、こうして、愛の指輪を通して、その心はしっかりと結ばれていたのだった。

 

◇突如、報道された川嶋家へのヤッカミと、紀子さんイジメ!

 

 いくら2人の恋が本物とはいえ、気持ちだけでは現実はついてこない。祝福の声があれば、また反対の声があるのも事実。

「果してうまくいくかしら」

「いきっこないわよ」

という外野の声は、庶民の世界でもよくあることである。

 まして、紀子さんの場合、そのお嫁入り先は他ならぬ皇室であった。伝統としきたりを重んじる人々は、当然のように、紀子さんについて批判的な見方をした。

 もっとも、その声も当初は紀子さんフィーバーにかき消されていたが、ある時期からジワジワと聞こえてくるようになった。そして、そういう声があることを報道するマスコミも現われ、紀子さんのプリンセス・ロードが、前途多難であることを思わせた。

 いわゆる“紀子さんイジメ”。

 そのムードは、おそらくこうした声に代表されていたといえるだろう。

「美智子さまが皇室に入られたときも相当なご苦労をなさったのです。平民の出とはいえ、正田家はそれでも立派な富豪。戦前と比べて力の落ちた旧華族よりも、かえって財力はありました。

 しかし、今度の川嶋さんは、3LDKの官舎住まい。いかに学者一家で一流の家柄とはいえ、いったいどんなお考えでお嬢さまを天皇家に嫁がすのでしょう」

 はっきりいって、家柄と財力があまりに違いすぎるというのだ。

 もちろん、川嶋家とて並の家ではない。父、辰彦氏は学習院大学の教授であり、その祖父・庄一郎氏も学習院大教授と学習院初等科の校長を兼任したという教育者。父・孝彦氏は高級官僚だったが、一族に多くの学者を輩出している名門の家である。

 しかし、そうはいってもやはり、世間でいう典型的なサラリーマン家庭とそう違わない、あまりに普通の家すぎると、この声は続いた。

 実際、こうした見方は、婚約発表直後から皇室ウォッチャーの間に蔓延していて、ある評論家などははっきりと、「まさか天皇家が許すとは思わなかった」と言うほどだった。

「いくら付き合いがあるとはいえ、紀子さんがお妃になるとは夢にも思わなかった。付き合いと結婚は別のもの。天皇家が許すとも思わなかったし、またそれを川嶋家が受けるとも思いませんでしたね。

 皇族関係者の間では、はやくも、川嶋家がやっていけるのかという危倶の声があがっていますよ」

 紀 子さんの人柄、容姿、気品、どこをとっても悪くいう人はいない。しかし、これらの声が、そういった人間性の根本とはまた別の問題なのも事実だった。開かれ た皇室といくら言われようと、まだ旧い体質の人々が旧華族や皇室周辺には存在し、家柄や資産に対して一種のこだわりを持っていた。

 川嶋家の父方のルーツは和歌山県。江戸時代から続いた庄屋で、祖父・庄一郎氏の代までは和歌山に広大な屋敷や田畑を持っていたという。しかし、現在は、これらはすべてなく、先に書いたように川嶋一家は、資産の面では世間のサラリーマン一家と変わらなかった。

 家計は、もっぱら父・辰彦氏の教授としての俸給に頼っていた。

「川嶋先生の年収はだいたい800万円というところだと思います。生活には困りませんが、特に川嶋先生は学問に熱心な方だから、本代や資料代も馬鹿にならないでしょう。失礼ですがその生活ぶりは、傍目にもけっして贅沢ではありません。むしろ、質素です」

 と、学習院関係者。

 とすれば、

「これからが大変。特に紀子さんの結婚のための費用をどう捻出するか、相当頭が痛い問題でしょう」

 という声も起こって当然だ。

 基本的には、結婚費用は国家の予算で賄われる。川嶋家には宮内庁から結婚の支度金が支払われるというが、ある常磐会(学習院女子部の同窓会)会員は、こんな見方もした。

「その支度金ですべてを賄うのは無理と思いますよ。

 美智子さまがお輿入れしたとき、国からは2800万円が支給されたといいますが、正田家はそれを越える額のお嫁入り道具を持たされたそうです。毛皮類や宝石、それにピアノなど、トラック3台分のお嫁入り道具だったそうで、いまのお金にしたら数億円といったところでしょう。

 紀子さんにしても、美智子さまほどではないにしろ、億のお金がかかるはずです。国からのお金では、晩さん会用のドレスや正装の2、3着は作れても、それ以上はどうするんでしょうか。

 ひ と口に皇族といっても、お里はあくまでも天皇家に対しては臣下というお立場。各宮家へは、お祝いの節には必ずお届けをしなければなりません。それに、ご挨 拶にうかがえば、毎回、同じ服というわけにはいきません。宝石類も身につけなければいけません。本当に、これは大変なことなんですよ」

 さらに、財力だけではすまされない宮中内部の問題もあるという。

「皇室には、あらゆることにこと細かな作法があります。その作法がうまくやれないと、うるさい方々が沢山目を光らせています。お妃教育を2ヵ月ほど受けられるといいますが、それだけではとうてい身につけられないと心配です。

 それに、浩宮さまが妃殿下を迎えられない限りは、紀子さんが美智子皇后さまに次いで、妃殿下方のトップに立つわけですから、並大抵のことではないと思います」

 か つて、美智子皇后が嫁がれたときも、宮中からはさまざまなイジメにあっているという話がもれてきた。それは、平民出身の妃殿下に対する旧体質の人々のヤッ カミともいわれた。「だから、ミラーズ・ドーター(粉屋の娘)では務まらないのよ」というカゲ口もたたかれたというのだ。

 紀子さんの場合も、これと同じことが起こるであろうと、これらの声は言っているのだった。

 し かし、紀子さんイジメともいうべき羨望と嫉妬のウズには、時代は変わるという大きな視点が欠けていた。それは、今回の婚約をなによりも美智子皇后が強力に 後押ししたことに顕著に現われていた。誰よりも紀子さんの立場を理解したのが美智子皇后。かつて、様々なイジメに耐えながら宮廷内の改革を押し進められた 美智子さまは、新しい時代の新しい精神の担い手でもあったのだ。

 美智子さまは、ご自分のときよりもより自由な恋愛をされた礼宮さまを認め、紀子さんとの婚約を心から歓迎したという。

 天皇家と一国民の間に成立したごく普通の恋愛。その結果、新プリンセスが誕生するということこそ、まさに平成という新時代の精神であった。そう美智子さまは自然に感じとっていたに違いない。

当初、お2人の結婚に天皇陛下は反対されたんです」

 と、ある皇室関係者から聞かされたことがあった。

「というのは、陛下は川嶋家に対してご配慮し過ぎたんです。皇后さまが苦労されたように紀子さんも苦労するのではないかと。しかし、皇后さまは礼宮さまの気持ちを尊重されていて、お2人は相当悩まれたんですね」

 結論が出せないでいる両陛下に、猛然と反発したのが礼宮さま。その結果、「紀子さんと一緒になれないなら、皇籍を離れてもいい」

 という“皇室離脱”発言が飛び出すことになった。

 結婚に消極的であったのは、川嶋家も同様。それまで何事にも紀子さんの意志を尊重してきた辰彦氏も、こればかりはおいそれと結論を出せる問題ではなかったからだ。

 しかし、お2人の意志は固かった。

 とうとう両家の親同士による話し合いに持ち込み、決断を迫ることになった。

「川嶋家側は最後まで逡巡されたようです。

 ところが、皇后陛下が熱心に川嶋夫妻を説得された。お互いに好きな者同士を一緒にさせてあげたいと述べられ、さらに経済的な面においても川嶋家には苦労をかけないという趣旨のことまで言われたそうです」

 果たして8月24日の川嶋夫妻を御所に招いての会談が、このようなものだったのかは正確にはわからない。

 しかし、美智子さまの理解が、紀子さんのプリンセス・ロードを切り開いたことだけは確かのようである。

 

◇皇后さまの「宮廷革命」。お2人のご婚約は、革命が着実に実を結んだ結果だった

 

 すでに述べたように、紀子さんと礼宮さまのご婚約の陰には、美智子皇后の暖かい心遣いがあった。

 平民の身で初めて天皇家に嫁いだ美智子さま。そのご苦労は、いかばかりだったか。いくら暖かい心遣いができようと、旧い伝統がそのまま残されていては、その心も通じなかったはずである。

 美智子さまの心遣いは、ご自身の「宮廷革命」ともいうべき努力があってこそ、花開くことができた。

 ここでは、そのことをふり返ってみようと思う。

 美智子さまの「宮廷革命」は、必ずや、紀子さんのそれへと続いていくはずだからである。

 皇 室には、おそらく何百何千という旧いしきたりがある。それは千何百年以上もかけて積み重ねられてきたもので、いくら時代に合わないとはいえ一朝一夕に変え られるものではない。しかも、多くの人間は保守的な生き方を好む。それは皇室にあっても例外ではなく、しきたりを変えるべきでないという声が圧倒的なの だ。さらに、皇族や官僚達などの目に見えぬ厚い壁も存在する。

 美智子さまは、そうした中へたった一人で飛び込まれたのである。

 美智子さまには2つの大きなハンディがあった。ひとつは平民出身であること。もうひとつは聖心出身であること。華族と学習院だけの世界である皇室のなかで、この2つの点は“美智子妃イジメ”となってはねかえってきた。

「可愛げがない」「平民出身のくせに宮中のしきたりに従わない」と、事あるごとに女官や宮家の指弾に合い、「学習院でないから仕方がない」とも言われたという。

 学 習院はもともと京都で宮家の教育機関として創立された学校。女子学習院は明治天皇妃の昭憲皇太后が独立させたもので、そのため、明治、大正、昭和の皇后は いずれも学習院の卒業生であった。特に学習院の同窓会である常磐会は権威をもち、「常磐会でなければ日本の上流にあらず」といわれ、聖心出身の美智子さま は孤立無援の身だったのである。

 美智子妃イジメは、お妃教育のときから始まったといわれる。

 当時の皇室関係者が明かすことに、こんなことがある。

「お妃教育係になった松平信子さんは、秩父宮妃の母君で昭和天皇の義妹にあたる方。当時、松平さんは東宮職参与でしたが、女性は口が軽いからと最後まで皇太子妃に美智子さまが決まったと知らされなかった。知らされたのは発表の3日ほど前で、そのとき松平さんは、当時の侍従や小泉信三さんに向かい、『責任はすべてあなた方にあるんですからね』と憤慨し、職を辞してしまったんです。

 そんな経緯があった方が美智子さまのお妃教育係になり、その方から、皇室のしきたりを学ばれたんですから、美智子さんの苦労は並大抵ではなかったんです」

 皇太子妃になってからも、有名なエピソードに帽子事件があった。

「あるとき、高松宮妃殿下が美智子さまの帽子が曲がっていると、少し直して差しあげた。ところが、美智子さまは、5分もたたないうちにそれを元通りに直してしまったので、高松宮妃殿下は『もう2度と、何も教えてあげない』と激怒されたんです」

 美智子さまは聡明な女性だった。そして聡明な女性が常に持つ気の強さがあった。

 しかし、いくら気が強いとはいえ、こうしたことが重なって、世間でも「最近ずいぶんおやつれになった」と評判になったのだった。

 そんな折、やはり心の支えとなったのは皇太子、現天皇陛下だった。陛下は、まず美智子さまの持っているすべての価値感を認めるところから出発し、それらを支えられた。父である昭和天皇も、この考えを支持されたという。

ところが、そこに突如起こったのが聖書騒動だった。

 昭和37、38年 のこと、常陸宮さまがまだ義宮さまの時代、キリスト教に興味を持ち、侍従を通して聖書を持っておられた。それを聞きつけた昭和天皇が、「どうして持ってい るのか」と聞かれると、義宮さまは仲のよかった美智子さまへの甘えか、「美智子さまから頂いた」と答えられたというのだ。

 昭和天皇は激怒され、美智子さまを呼びつけて、激しく責めたという。

 この当時が、美智子さまの最もドン底の時代であった。葉山の御用邸にこもって物思いにふけり、1日中口もきかない日もあったといわれている。

 しかし、美智子さまは立ち直られる。旧態然たるしきたりは、自分の力、自分の家族で変えていくしかないと、決意されたのだ。

 まもなく、現在の皇太子浩宮さまが誕生すると、美智子さまの「宮廷革命」は着手された。

「皇位を継ぐ皇太子の誕生は美智子さまに勇気を与えたんです。皇后や直宮妃、女官という皇室の女の世界のなかで、やはり後継ぎに恵まれたということは、力関係を変えていきます」

と、皇室関係者。

 美智子さまがまず第1に された革命は、浩宮さまを東宮御所内で一緒に暮らして育てると、宣言されたことだった。これは、天皇家の伝統である「皇太子は親元を離れて育てる」という ことに、敢然と挑戦することだった。現に、現天皇陛下も昭和天皇も、みな両親の手によって育てられてはない。昭和天皇は、生後3ヵ月で川村伯爵家に預けられ、現天皇陛下も3年3ヵ月で離されている。そのためか、天皇陛下は学習院初等科に入学されたとき、1人で階段を登れなかったという。それまで女官に手を引かれていたので、1人だと恐くてたまらなかったというのだ。こうしたことを美智子さまは陛下から直接聞かされ、これではいけないと思われたのだろう。

 天皇家といえども普通の家族、団欒のある家庭を築くべきだとお考えになったという。もちろん、陛下ご自身も大賛成であった。

 続いては、乳人(めのと)制度の廃止。

 乳人というのは、読んで字の如く乳を与える女官で、現天皇陛下は3人の乳人の乳を飲まれたという。しかし、美智子さまは自らの母乳で浩宮さまをお育てになった。

 さらに、御所内に自分のキッチンをお造りになった。

 それまでの妃殿下は台所に立つという習慣がなかった。毎日の食事は、大膳職という専門の料理人が作ることになっていたが、美智子さまはこれに異を唱えた。

「たまにはご自分の手料理をお子様方に食べさせたい、そう願ったんです。お弁当を作ったりしてみたい、そういう母親の情はしきたりを越えてしまいます」

 こうして美智子さまは子育てを通して、次々と「宮廷革命」を進めてこられたのである。

 その意味で、浩宮さまも礼宮さまも、一般家庭で育った子供と全く変わらぬ側面を持ち得たといえる。礼宮さまが、川嶋紀子さんと一般の学生がするような自然なキャンパスの恋を育まれたのも、まさに美智子さまの「宮廷革命」の成果といえるのだ。

 開かれた皇室。それはさらに、礼宮さまの婚約によって強固になったともいえるのだ。

 

◇礼宮さまと離れ離れの日々。

父祖の地・和歌山を訪れ、祖父の墓に結婚の報告を!

 

 平成1年の秋はおだやかな秋晴れの日が続いた。都心にあっては珍しく緑の多い学習院大学の構内の木々も、日一日と深まりゆく秋に紅葉を深めていった。

 9月のあの洪水のような紀子さん報道も、ようやく一段落。それでも毎日SPと報道陣を従えて、紀子さんの日常生活は、ゴールヘ向かって着実に進んでいった。紀子さんは来たるべく新しい年に備えて、花嫁修業と思われるお花のお稽古を始めるとともに、大学院にもひんぱんに顔を出すようになった。

「来年になったら本当に忙しくなります。今年いっぱいはまだ自由がききますから」

 という理由で、積極的に友人達と語らいの時間を持つようにもなった。

 そんなわけで、以下、11月半ば以降の紀子さんの行動を取材メモから再現してみよう。

◎11月14日:母・和代さんと一緒に、毎週第2火曜日の午後7時から中野の労働福祉会館で開かれている、日本チター協会名誉会長、束京女子大名誉教授の村田豊文さん主催の「お茶の会」に出席。オーストリアと日本の大学制度の違いについての話を熱心に聞く。

◎11月15日:午前10時 から、母・和代さんと渋谷区内の『チター・スタジオ』を訪問。日本チター協会会長の内藤敏子さんのレッスンを受ける。チターはオーストリアを中心に古くか ら伝わる弦楽器で、川嶋家はウィーン滞在中にチターに親しみ、両親と紀子さんが内藤さんの指導を受けている。午後は、下落合にお花のお稽古。

◎11月17日:紀子さん雛が発表される。上野の真多呂人形会館で発表された平成2年度“変わり雛”のひとつ。なんと「プロポーズは信号待ちで」のあのシーンがそっくりそのままお雛人形に。50組限定1組7000円。紀子さん人気ここに極まった。

◎11月18日:午前中、大学院。

◎11月22日:午前中、大学院。

◎11月23日:しばらく休んでいた朝のジョギング姿が見られた。午前7時30分スタート。ピンク色のジャージーの上下。もう吐く息が白い。ここ2週間ほどジョギングを休んだのは風邪ぎみだったせい、と関係者。

◎11月27日:英国留学中の礼宮さまの動向が入ってくる。この日、12月8日までの予定で礼宮さまはスイス、ベルギー、オランダ3カ国ご視察の旅へ出発。スイスのジュネーブ郊外で開かれるWWF(世界自然保護基金)年次総会に、日本委員会総裁として出席された。

◎11月28日:研究仲間とともに筑波大学(茨城県)へ2泊3日の旅に出発。これは、同大で開かれる日本心理学会の大会に出席する旅だったが、舞台裏ではちょっとしたハプニングがあった。というのは、紀子さんが大会3週間前まで心理学の会員に登録されていなかったから。ところが11月初旬、資格審査をパスし、準備側は大慌て。「あくまで一会員」「まだ民間人」「特別扱いはしない」「いやSPが5人、マスコミも100人ほどくる」とひと悶着あったというわけ。結局、マスコミ側に「お願い」という取材規制が出されることで結着したが、これも紀子さん人気のすごさを物語っていた。

◎11月30日:午後3時すぎ、筑波大学から車で帰京。夜7時、一家で赤坂御所に上がり、天皇皇后両陛下に礼宮さまの24才の誕生日のご挨拶。その後、食事をご一緒に。

――こうして、1日1日を大切に過ごす紀子さんだったが、12月に入ると突然の悲しみに襲われる。

 それは、年内に予定されていた礼宮さまのご帰国が延期されたことだった。当初、礼宮さまのご帰国は、留学先の講義が終了する12月半ばといわれていた。紀子さんも、礼宮さまも再会の日を楽しみにし、再会デートの計画も立てていたという。

 それが、突然の延期。

 そこで、こんな話がもれ伝わってきたのだ。

「こ れは宮内庁側の意向である。異例ずくめの今回の婚約劇は、いわば礼宮さまの一種のわがままで進んできた。しかし、この辺で、もう少し皇室の一員としての自 覚をもってもらおうということです。もちろん、両陛下も十分ご理解されている。このまま帰国され、紀子さんとたびたび会われることを報道されるのは、まだ 昭和天皇の喪中とあって、いい印象を国民に与えない。そう宮内庁は判断したんです」

 この話をさらに極めるように、こんな話を書いた週刊誌もあった。

 じつは礼宮さまは、12月 半ばになって「帰国できないなら、ヨーロッパ王室の歴訪の旅に紀子を同伴したい」という意向を伝えてこられた。ヨーロッパでは、結婚前でも正式に婚約して いるなら、婚約者を同伴して紹介することは当然と考えられているという。しかし、この申し出に両陛下もかなり驚かれた。そして、やはり積極的に説得してお 止めになったというのである。

 話の真偽はともかく、情熱家の礼宮さまならありそうなことであった。

 ともあれ、こうしてお2人は年内に再会できることはなく、あわただしい師走がやってくる。

 紀子さんが家族と父祖の地、和歌山を訪れたのは、12月17日のことだった。和歌山県和歌山市専念寺には祖父・孝彦氏の眠る川嶋家のお墓がある。川嶋家一家4人は、午前9時過ぎの新幹線で東京を発ち、和歌山に入るとまっ先にこの専念寺を訪れた。

「本来なら33回忌にあたる来年の2月11日に行くのでしょうが、納采の儀が済むとお妃教育も始まり、プライベートな時間もとれなくなる。それで、年内にすませようと旅立ったんです」と、川嶋家の関係者。

 3泊4日の久しぶりの家族旅行。本当のプリンセスになったら、もう2度とできないかもしれない気のおけない旅。

 紀子さんは、祖父の眠る墓の前に立ち、結婚の報告をすると、しっかりと手を合わせたのだった。

 

◇絹地の巻物3巻、清酒6本、雌雄一対の鯛。

これが天皇家の正式結納“納采(のうさい)の儀”のすべて

 

「天皇、皇后両陛下のおぼし召しを承け、文仁親王殿下(礼宮さま)には、本日、川嶋紀子嬢に結婚の約をなすため、納采を行なわれます」

 と、重田保夫侍従次長が口上を述べると、

「謹んでお受け申しあげます」

 と、紀子さん。

 小さな声だったが、しっかりと落ち着きのある声だった。

 平成2年1月12日、紀子さんの家である学習院教職員住宅の4階、川嶋家の3LDKの一室、8畳のダイニングルームで、納采の儀は行なわれた。

 一般の人々にとっての婚約にあたる納采。「采」は結婚相手の女性を選んだという意味という。美智子皇后以来、じつに31年ぶりに行われた民間への納采は、約15分間、口上の後は、重田侍従次長から紀子さんに、納采の品の目録が渡され、儀式はとどこおりなく終わった。

 この日の朝、紀子さんは、

「引き締まる気持ちで、すがすがしい朝を迎えました」

 と語ったが、ここに至るまでの川嶋家の準備は大変だったという。なにしろ、共同住宅での納采は皇室史上初めてとあって、どう行なうかに関係者は頭を痛めたのである。

 川嶋家の3LDKは、紀子さんの部屋の6畳間と、弟の舟くんの部屋の4畳半間に、6畳和室と8畳のLDKという構成だから、使えるのは6畳和室と8畳のLDKということになる。

「この2部屋の準備が大変だったといいます。8畳間はもちろんですが、6畳間の方も控え室として使われるため、部屋の中には絨毯が敷かれ、いつも紀子さんが愛用しているピアノやチターなどの楽器を片づけて、応接セットを置いたようです。

 それに、天井を塗り替えたり、壁紙を張り替えたり、大忙しだったようです」

 と、川嶋家の関係者。

 こうして準備された8畳間には、金屏風が立てられ、納采の品が卓上に置かれることになるが、部屋の準備は整っても、まだ心配な点が残っていた。

 それは、儀式の前日、重田侍従次長が、こんな感想をもらしたからだ。

「靴を脱ぐとなると、(川嶋家には)靴ベラはあるだろうか?」

一般庶民の家に土足であがるのはまずいと、重田氏は気にかけたのだ。重田氏の心配はもっともだったが、じつをいうとこの問題はその3日前の事前打ち合わせの段階で決着をみていた。打ち合わせに出向いた宮内庁の担当官は、川嶋家側に式の手順を説明、その後、「当日ですが、靴をはいたままでもいいのか迷っています。どういたしましょうか。私どもとしてはどちらでも構いませんが……」

 切り出したのだ。

 これに対し、紀子さんの父・川嶋辰彦氏は、宮内庁側の配慮を察してか、

「靴のままで結構です」

 と、答えていた。

 この報告を受けて、重田氏の心配は消え、当日は全員靴をはいたまま行なわれた。もちろん、着物の紀子さんと母の和代さんは草履をはいたままであった。

 も ともと、明治以降の天皇家では靴を脱ぐ習慣はなく、皇族・華族間で行われる婚礼等の諸行事もすべて靴や草履をはいた状態で行われている。宮内庁関係者によ ると、「皇族方はふだんでも、お寝みになられるとき以外は、靴をはかれています。この点では、欧米の習慣に近い」といい、美智子皇后の正田家でも、昔から その習慣があったという。

 さて、納采の儀では一般の結納と同じように、天皇家から川嶋家へ納采の品が送られた。

 絹地の巻物3巻と清酒6本。それに、雌雄一対の鯛。

 これは、美智子皇后や常陸宮妃のときも同じで、天皇家が東京に移られてからの慣習という。

 このうちの絹地は、皇室内の通称、「紅葉山(もみじやま)」にある御養蚕所で採れた生糸を織ったものとされている。御養蚕所は、明治天皇の皇后、昭憲皇太后が始められ、ここで織り上げた生地は、納采の品のほか、外国からの賓客への贈り物などにも使われる。

 絹地3巻の色は、ピンク、白、もえぎ色の3色。普通の洋服地の3倍の長さで、1巻幅1.2メートル、長さは約11メートルもあって、これは礼装のローブ・モンタントやローブ・デコルテ1着を作るために必要な長さという。その柄は、ピンクが菊の花を散らして銀糸を入れた“菊もみ”、もえぎ色が金銀モール色の箔入りの“水衣(みずごろも)”、白がおめでたい鳥の絵を描いた金銀箔入りの“明暉瑞鳥錦(めいきずいちょうにしき)”。

 なかでも、“明暉瑞鳥錦”に関しては、評論家の酒井美意子さんが、次のようなコメントを何誌かの記事に発表していた。

「この柄は、おそらく中国の鳳凰をあしらったもので、皇后さまがご自分で指示されたものと聞いています。美智子さまの納采の儀に納められたものと同じ柄だそうです」

 美智子さまは皇太子妃ということで、紀子さんより2巻多い5巻だったというが、こんなところにも紀子さんを迎える美智子さまの心遣いが生きていた。

 清酒6本に関しては、『桜正宗』『菊正宗』『月桂冠』『惣花(そうばな)』の4銘柄が宮内庁に入っているが、このうちの『惣花』といわれた。もちろん、公式な発表はなかったが、皇室では祝い事には『惣花』を使うのが習慣になっているからほぼ間違いないという。『惣花』には宮内庁用と市販用があり、ちなみに市販用はラベルがちょっと違うだけで、1.8リットルが3000円である。

 最後になったが、雌雄一対の鯛に関しては、こんな苦労話が『微笑』誌に載った。それによると、この鯛を用意したのは三興魚類という会社で、営業部課長の小作長治さんによると、「注文がきたのは納采の儀の1週間ほど前」で、「時期的に鯛がない」ときだけに、信頼できる仲買業者に悲槍な決意で頼みこんだという。その仲買業者、尾清本店・野上邦夫さんは、5キロ級を全国7カ所の魚場に、「上がったらすぐ飛行機で送ってくれ」と指示、現物を見るまでは眠れなかったという。

 冬場は形のいい鯛はなかなか上がらず、上がったのは、11日。13枚の立派な鯛が、九州から届いたという。

 ともあれ、こうして納采の儀は無事に終了した。紀子さんの清楚な振袖姿は、ほぼすべての媒体に掲載され、平成2年がロイヤル・イヤーになることを全国民に知らしめたのだった。納采の儀が終わってしばらくして、こんな声がきこえてきた。

 紀子さんが最近落ち込んでいるというのだ。

 そ の原因は、どうやら紀子さんを見る周囲の目が微妙に変わったことにあるようだった。それまで、「キコちゃん」と気楽に呼ばれていたのに、「紀子さん」「紀 子さま」と距離を置いて呼ばれるようになった。マスコミの張り込みがきつくて、思うように自然に行動できないことも、紀子さんの心を暗くしているという。

 この頃、紀子さんのクラスメイトを取材したが、やはり「いままでと同じようにしていいのかわからない」と本音をもらした女性がいた。

「話していても、あっ敬語を使わなくちゃと、つい考えてしまうんです。それで、今までと違って『川嶋さん』と呼んだら、『キコちゃんでしょう、いままでと同じに呼んで下さい』と怒られちゃったんです」

 と言うのである。

 しかし、落ち込んでいるといっても、紀子さん自身はもともと強い意志の持ち主でもあり、時代も昔とは変わっていた。美智子皇后の婚約時代と比べたら、紀子さんの現状は比較にならないくらい自由なのだった。

 美智子さまは婚約時代、皇太子さま(現・天皇)と同じ車にも乗れなかったし、ましてデートなど1度もされていない。しかも、婚約後、天皇家から1度だけ家族でお茶会に招かれただけで、結婚の儀を迎えられている。それに比べて、紀子さんは、何度も御所に呼ばれ、また川嶋家も家族そろって食事に招かれることもしばしばだった。実際、納采の儀の翌日には一家そろって御所に招かれ、両陛下と夕食を供にされていた。

 こんなことは異例中の異例で、美智子さまがいかに紀子さんに気を遣われたかが、宮内記者の間でも話題になった。

一時的な落ち込みはあったにせよ、紀子さんは、あのいつもの“紀子さんスマイル”で、プリンセス・ロードをのぼっていったのだ。

 

◇美智子皇后の紀子さんへの「嫁姑愛」――ご自分の帯をプレゼントされた!

 

納采の儀が終わってまもなく、『女性自身』2月13日号に、美智子さまと紀子さんの2枚の写真が並んで載った。どちらも、納采のときの写真。この2枚には、月日にして約31年間のへだたりがあるが、なんとお2人がしている帯はほとんど同じものなのである。

“紀子さんの帯は、美智子さまからの贈り物!”

記事のタイトルは、こうなっていた。

そう、あの納采の儀に紀子さんが締めていた帯は、美智子皇后がご自分の納采のときに締められていた帯と色違いなだけ、というのだ。

 すでに、美智子さまがいかに紀子さんに気配りをなさってきたかは、詳しくふれた。その帯は、かつてご自分も同じ経験をされた美智子さまが、31年の月日を経た今、新しくプリンセスとなる紀子さんへ贈る限りなき愛の証しであった。

 平成2年4月10日は、この美智子さまと天皇陛下のご成婚31周年。これを記念して、日本テレビでは『平成の貴婦人 美智子皇后さまご結婚31年 紀子さんとの嫁姑愛』(放映4月12日)という特別番組を組んだ。

 このときのプロデューサー・渡辺みどりさんは、番組を「皇后さまが歩まれてきた31年間を振り返りながら、この6月“嫁姑”の関係となられる皇后さまと紀子さんとの触れ合いにスポットをあててみました」と語り、こんなエピソードを公開した。

「紀子さんが納采の儀で締められていた菊葉紋の西陣の帯。あれは皇后さまのアドバイスによって作られたんですね。

 当時の美智子さまの帯は、京都の老舗『龍村(たつむら)』が織ったものなんです。このとき作られた型が『龍村』に残っていて、それで、皇后さまがその型を使うように自らご注文なさって、紀子さんに色違いのものを贈られたんです」

 また、納釆の品の絹地3巻のうちの“明暉瑞鳥”も、皇后さまがご自分と同じものをと『龍村』に注文なさって作らせたという。

「紀子さんに対する皇后さまのお優しい心遣い……、一般の私達でも、息子の婚約者にあれだけのお心遣いは、なかなかできませんでしょ」

 と、渡辺さん。

 こうして、同番組では、美智子さまのご成婚当時に時間をさかのぼり、当時の“美智子妃イジメ”のエピソードを紹介、皇室においても難しい“嫁姑関係”を浮き彫りにした。

 当時、美智子さまは、皇后さまをはじめとする皇族方にあまり歓迎されていなかった。その顕著な例として、同番組では、ご成婚パレードのエピソードが初めて公開された。

 昭和34年の初め。ご成婚パレードが決まろうとしていたとき、皇后(現、皇太后)さまは、当初6頭立ての馬車でのパレードについて、昭和天皇の大礼のときは4頭立てだった例をあげられ、

「私のときは4頭立てでしたのに」

 と、側近にもらされたというのだ。

 もちろん、その後、皇太后も十分に納得されたというが、これなど婚約中から美智子さまへの風当りがあったことを示す十分な秘話だった。

 美智子さまの心には、まだこのころの無念な思いがあり、

「紀子さんだけには、あんな苦労をかけたくない」

 と気遣われるのだという。

 その結果としての、納采の儀の帯。

 この後、結婚の儀に至るまでの間、これと同じような美智子さまの心遣いは続いた。

 例えば、お妃教育もひと段落した4月ごろから、紀子さんは、ひんぱんに外出するようになった。その外出先は、デパートであったりブティックであったり……。晴れの日の準備に大わらわとなったのだったが、その準備のそこかしこに美智子さまとつながる点が散見されたのだ。

 4月26日のこと、紀子さんはまず日本橋の高島屋でショッピング、その後、午後1時ごろ、銀座の宝石店『ミキモト』に立ち寄り、さらに麹町のブティック『ベルモード』へと足を運んだ。

 『ベルモード』は、美智子さまがお気に入りのブティックで、ここの帽子を何点もお買い上げになっていることは皇室関係者ならよく知っていた。それで記者達は、「多分、結婚式後にかぶる帽子のデザインの打ち合わせに行ったのだろう」と、ささやき合ったのである。

 美 智子さまのお心遣いは、結婚式当日に着られる正装、ローブ・デコルテについてもはっきりと感じられた。紀子さんが着るローブ・デコルテは、日本ファッショ ン界の重鎮である中村乃武夫氏が担当されることになったが、これも美智子さまがご推薦なさったというのだ。紀子さんは、美智子さまのアドバイスを受け、中 村さんのもとに何度も足を運んだのである。

 美智子さまの心遣いは、何もこうした表面上のことばかりではなかった。

 ある皇室関係者によれば、それは着付けや髪型から作法に至るまで、こと細かく及んだという。

「おそらく、そうしたすみずみのことで、ご自分が苦労なさったからに違いありません」

 と、記者が取材したある元女官も、ハッキリと指摘した。

「納采のときの“ふくら雀”と呼ばれる帯のしめ方ひとつにしても、また、バッグや小物についても、正確な知識と経験がなければできないものです。

 さらに、結婚の儀では十二単(ひとえ)を着られるわけですし、これらの点もみな、一般の方々ではできません。

 もちろん、女官や関係者を通してでしょうが、美智子さまは紀子さんに精いっぱいのお気遣いをしてらっしゃいます」

 ご結婚を待たず、婚約中にこのようなアドバイスを皇后がなさるのは、異例中の異例と、この元女官は言った。

 紀子さんのプリンセスヘの道は、そうした意味でも、まさに平成という新時代を強く感じさせずにはいられなかった。

 

◇最後の庶民生活を心ゆくまで。家族旅仔も楽しみ、ついにむかえた結婚の儀

 

 残雪の残る栂の森駅でゴンドラを降りると、快晴の北アルプスの峰々が、川嶋家の人々を歓迎するように光り輝いていた。

 平成2年4月29日に東京を発った6泊7日の家族旅行。ゴールデンウィークのスタートとともに、紀子さんも多くの人々と同じように、一家で旅に出た。

 しかしこれは、庶民としての最後の家族旅行。これからはもう2度と同じ思いでは、旅は楽しめないのである。

「結婚まで残り少ない日々を、できるだけ家族で一緒に自然の中で過ごしたい」

 というのが、紀子さんの強い希望だったという。

 そのため、伯母の佐藤豊子さんの嫁ぎ先の別荘がある長野県・白樺高原が選ばれ、父・辰彦氏の親友で東大スキー部OBの佐々木尚人筑波大教授夫妻も、案内役として同行する楽しい旅となった。

 1泊めの夜を共にすごした佐藤豊子さんは言った。

「それは大変にぎやかでございました。私の孫たちも集まって、小学3年生の男の子と1年の女の子、それに1才8ヵ月の男の子ですが、これが紀子ちゃんになついて離れないんです。紀子ちゃんも子供好きなので、心から楽しそうに相手をしておりましたね」

 そして翌日の栂池高原。

 観光客も紀子さん一行に足をとめ、「おめでとう」と声をかける。それにいつもの紀子さんスマイルで、はにかむように頭を下げる場面もあった。

 高原にある北小谷小学校大綱分校を訪れると、子供達がかけ寄り、

「わあー、やっぱりきれいなお姉ちゃんだ」

 と、大歓声。

 高原では春スキーを楽しむ人が多く、紀子さんは「私もしたいな」とつぶやいたが、結婚まではそれもできない相談。

 雨飾山(あまかざりやま)の麓の散策、森林浴、鬼無里村(きなさむら)の水芭蕉の観察……と、ともかくも庶民としての最後の思い出は、十分に心にストックされたのだった。

 こうして、東京に戻った紀子さんを待っていたのは、もう2ヵ月後に迫った結婚への準備の日々だった。

 5月8日、紀子さんは、東京・代々木にある中村乃武夫さんのブティックを訪れた。これで3度目の訪問。目的は、結婚式当日に着ることになるローブ・デコルテの仮縫い。前2回の訪問が、デザインの打ち合わせとか型取りだったのに対して、この日は初めて本番の布を使って仮縫いされた。

 ローブ・デコルテは、いわば紀子さんのウエディング・ドレス。

 仮縫いとはいえ、それを身につけたとき、紀子さんの心にはなにが去来したであろうか。中村乃武夫氏は週刊誌の取材にこう言っている。

「絹地の布をまとっていただいた瞬間、ハッとするようなものを見ました。素敵でした。スタイルは崩れていらっしゃらないし、大胆に開いた背中の線の美しさに目を見はりました」

 ローブ・デコルテに使われる布地は、先の納采の儀で天皇家から贈られた“明暉瑞鳥”。

「ローブ・デコルテは、ウエディング・ドレスなどに比べると、実に質素で簡単をもの。

 それだけに着る人のお人柄がそのまま表に出てしまうんです。

 最もプレーンでシンプルな服だけに、作る方としては逆に難しい。枝葉をそいで幹だけの美しさを出さねばならないのですから、緊張します」

 この仮縫いが終わった翌日、紀子さんは再び、長野へ旅立った。現代日本画の大家・東山魁夷氏に招かれ、信濃美術館内にオープンした“東山魁夷館”を訪ねたのだ。1泊2日の旅。

 そして、とうとう5月11日、結婚前の最後の公式の行事、告期の儀がやって来た。

 5月11日、午前10時、川嶋家に納采のときと同じように重田侍従次長が訪れ、川嶋家に婚礼の日取りを告げた。

 8畳のダイニングルームには、半年前からお花を習っている紀子さんが自ら生けたナデシコ、マンサク、ショウブが飾られ、金屏風を横にして、重田氏が口上を述べた。

「文仁親王殿下の結婚の礼を6月29日に行われることにお定めになりましたから、その旨お伝えします」

「謹んで承りました」

 紀子さんの声は、納采のときより落ち着いた声だったという。

 儀式はわずか1分ほど。

 しかし、紀子さんにとってはどれほど身の引き締まる思いがしたことだろう。

「ご口上を承り、改めて気持ちの引き締まる思いがいたします。

 これからはますます健康に留意しつつ、心静かにその日を迎えたいと存じます」

 儀式の後伝えられた紀子さんの心境は、おそらく庶民として最後のマスコミヘのコメントであった。

 

 平成2年6月29日。

 美智子皇后以来の庶民のプリンセスは、礼宮さまのもとに嫁ぐ。

 この日をもってして、紀子さんは川嶋家の戸籍から除籍され、皇室の系譜である皇統譜にその名が記入される。この皇統譜は宮内庁書陵部と法務省の2カ所で保管され、一般の皇統譜の礼宮さまの欄には、こう記される。

「平成二年六月二十九日 川嶋紀子と結婚の礼を行う」

 これをもってして、3LDKのプリンセス、川嶋紀子さんのプリンセス・ロードは、その階段の頂上で静かに幕を閉じる。その先はまた別の階段。一般の人間と違う妃殿下としての人生の階段が紀子さんを待っているのである。

 

●Part 2:紀子さん、23年間の愛の履歴書

 

 誠実な学者一家・川嶋家に生まれ育った少女は、聡明で好奇心旺盛。周囲の暖かい愛にも恵まれて、プリンセスとなるにふさわしい教養を身につけていった。

 知られざる紀子さんの23年間のすべてをここに――

 

◇両親も“キャンパスの恋”から結婚を。

誠実な学者一家である川嶋家のルーツ

 

 川嶋紀子さんの誕生は、昭和41年9月11日のこと。誕生時の体重は2850グラム。いわゆるごく平均的な元気な赤ちゃんだった。

 しかし、このごく平均的な赤ちゃんは、やがて未来のプリンセスとなる運命を持っていた。

 いま、紀子さんの23年間の生い立ちをふり返る前に、紀子さんをこの世に誕生させた運命の糸を語らなければならないだろう。

――話は、30年ほど前にさかのぼる。

 昭和30年代の半ば、場所は東京大学のキャンパス。

 紀子さんの父・川嶋辰彦氏(50)と、母・和代さん(48)も、紀子さんと礼宮さまのように“キャンパスの恋”で結ばれたのだった。

 辰彦氏の東大時代の同窓生によると、

「2人が結婚したのは、辰彦氏が東大の大学院生だったとき。和代さんとは、まだ学部にいたころにダンスパーティーで知り合ったといいますね」

 当時の和代さんは、昭和女子大短期大学部英文科の学生。

「お嬢さんの紀子さんと雰囲気もソックリで、背も高く、スラリとして、静かで上品なタイプでした。勉強もよくできて、シッカリしていて、そんなところに辰彦さんも魅せられたんだと思います。2人は、本当にお互いを大事にし合いながら交際し、和代さんが卒業するとしばらくして結婚なさいました」

 と、和代さんの同級生。

 式は東京・杉並の高井戸教会、披露宴は教会の付属幼稚園のホールで、会費制で行なわれたという。

 まさに、キャンパスの恋にふさわしいゴール・イン。ヴァージンロードを純白のウエディング・ドレスで歩く和代さんの花嫁姿は、ハットするほど美しかったという。

「和代さんの結婚当時、まだ辰彦さんは大学院生でしたから、和代さんは近所の子供達相手に家庭教師をして家計を支えていました。

 お姑さん(辰彦氏の母)は、ご主人を早くに亡くされて、苦労を重ねて子供達を育てあげた方で、嫁の苦労もよく知っていましたから、和代さんとは気が合ったといいます。

 普通の家庭で育った人が学者一家に嫁いだわけですが、苦労も少なくなかったと思います」

 紀子さんの母・和代さんは、静岡県出身。いまも静岡市に健在の杉本嘉助さん(75)栄子さん(73)夫妻の長女として生まれ、ミッション系のお嬢さま学校として知られる静岡の英和女学院から昭和女子大へと進んだ。

 杉本家は、戦前、従業員20人ほどをかかえる鏡台製作所を営んでいたが、そこに息子として生まれた嘉助さんは成績優秀。

「当初木工職人になるつもりだったようですが、勉強があまりによくできるので、先生のすすめで現在の静岡工業高校に進学。その後、横浜高専(現・横浜国立大学)へ。卒業後は満鉄(満州鉄道)に入社したんです。

終戦後は故郷に引き揚げてきましたが、他の同僚達のように国鉄に横すべりすることはせず、指圧師として再出発したんです。気骨のあるいい人ですよ。栄子さんは精華高女卒で、当時はバスケットボールの選手をしていたといいます。

 お2人は、本当に和代さんをそれこそ手塩にかけて育て、子供の教育には苦労をいとわなかったですね」

 と、地元の人。

 いっぽうの紀子さんの父・川嶋辰彦氏は、元内閣統計局長だった孝彦氏の二男として、昭和15年、東京・豊島区に生まれた。兄弟は、兄1人、姉2人、弟1人の5人。ただし、長男の敬一さ人は1才で早逝しており、実質的には4人姉弟。姉2人はいずれも大学教授に嫁ぎ、弟の行彦氏も東京国際大学教授という学者一家である。

 辰彦氏は、この学者一家を育てた母の紀子さん(82)を、小さい頃からずっと尊敬し、自分の娘にも「紀子」の名をつけたという。

 辰彦氏の父の孝彦氏は、和歌山県の出身。佐賀中学、一高、東大法学部と進んで、内務省入りしたという戦前のエリート官僚。昭和22年内閣統計局長を最後に退き、昭和33年、61才で逝去。

 つまり、辰彦氏の母・紀子(いとこ)さんは、辰彦さんを含めた4人姉弟を夫亡き後も立派に育てあげたのである。

 この紀子(いとこ)さんの父で、紀子(きこ)さんにとっては曽祖父にあたる池上四郎氏は、福島県会津若松市出身。長らく警察畑を歩み、大阪府警察部長を務めた後、大正2年に大阪市長に就任。以後10年間にわたって“名市長”“大大阪建設の祖父”とたたえられた。

 現在も、天王寺公園に行けば、この池上四郎氏の銅像が建っている。

 さて、こうした名門の出の辰彦氏は、東大経済学部から同大学院修士課程へ進み、米国ペンシルベニア大学に留学。そこで地域分析学の博士号を取得し、昭和47年に学習院大の助教授となり、51年には教授に就任。研究生活のかたわら、学習院大馬術部の部長も務めている。

 辰彦氏の人物像については、紀子さんの婚約報道のときに、学習院大の2人の教授がマスコミにこんなコメントを寄せている。

 まずは、馬術部のOB会『桜鞍会』の幹事でもある篠沢秀夫氏。

「学校で会ったりして『いい天気ですね』と声をかけたりすると、『本当によいお天気で、心が洗われるようでございますねえ』とニコニコしながら挨拶をされるような方なんですよ」

 続いては辰彦氏の同僚でもある経済学部教授、江沢太一氏。

「スケッチも趣味で、展覧会にもよく行かれるようです。年賀状には毎年、とてもシャレた風景を描いて寄せられるんですが、そのマメさにはいつも感心させられるばかりです」

 まさに、誠実で心温まる学者一家、川嶋家。

 紀子さんは、こうした背景のもとに、両親の“キャンパスの恋”の結晶として、この世に生を受けたのだった。

 

◇日本語がぜんぜん話せなかった帰国子女。

でも、そのガンバリ屋ぶりは日をみはらせた

 

 婚 約発表以来、紀子さんについては、あらゆるマスコミに、さまざまな人々の証言が寄せられた。そのどれもが、紀子さんのさわやかな人柄を偲ばせるものばか り。いま、そのひとつひとつを丁寧にたどっていくと、やはり、紀子さんの故郷・静岡市馬淵に住む、紀子さんの母方の祖父・杉本嘉助さんに行きつく。嘉助さ んは、礼宮さまと紀子さんのご婚約が正式に決まったとき、妻の栄子さんともども、

「かぐや姫のおじいさん、おばあさんになった心境です」

 と語り、

「私も家内も大正生まれで、皇室の方といえば神さまのような存在ですから、孫が神さまと結婚するなどとは、いまだに信じられないのです」

 と襟を正したものだった。

 この嘉助さんの心に刻み込まれている紀子さんは、まだ小学生になったばかりのあどけない姿である。

 紀子さんは、静岡市の静岡済生会総合病院で生まれると、すぐに東京に戻り、翌年、昭和42年には、アメリカヘと旅立っていった。父・辰彦氏がペンシルベニア大学の大学院に留学したためで、杉本夫妻としてはずいぶんと寂しい思いをした。

 しかし、昭和48年に帰国。この年の夏を杉本家で過ごしている。

「生まれてからずっとアメリカに行っていたのが、あの子の母親が次の子(弟の舟くん)を出産するために、あの子をここに連れてきたんです」

 杉本家には、紀子さんの写真がいっぱい収められている一冊のアルバムがある。そのアルバムには、“6月から9月まで3ヵ月間。こんなに長い間暮らせることは、もうないだろう”と書かれている。

 砂浜で遊ぶ紀子ちゃん。自転車に乗る紀子ちゃん。セパレーツの水着姿の紀子ちゃん……。小学校1年生の輝く夏の日の思い出が、いまもあざやかに甦る。

 栄子さんが語る。

「短い間でもこちらの小学校に通わせなければと、すぐ近くの中田小学校(清水市立中田小学校)に入れてもらいました。アメリカ育ちで、日本語がよく話せないので、それがいちばん心配でした。

 でも、学校に入ると何とかやっていきましたね。なにしろあの子はガンバリ屋で小さいときから弱音を吐くのが嫌いな子でしたからねえ。

 いまから思うと、あの頃はあの子にとっていちばん苦しい時期だったかもしれませんね。

言葉はうまくしゃべれない。そのうえ、下に弟ができて、みんなの目は弟に注がれる。言葉がうまくしゃべれないので、近所の子供達と思うように遊べない。つらかったと思いますよ」

 しかし、写真で見るかぎり、紀子さんの表情には何の翳りもない。紀子さんは明るくスクスクと育っているように見える。

「おじいちゃんが、みんなと遊べなくて寂しいだろうって、本当によく相手をしてやったんですよ。

夏でしたから、学校から帰ってくると近くの大浜プールヘ連れて行って、日が暮れるまで一緒に遊んでやったり、休みの日は、美保にあった流れるプールヘ連れて行ったり、富士山に登ったりと、よく一緒に出かけたものでした。

 紀子のガンバリ屋さんぶりは水泳にもよく現われていましたね。

 大浜で被る帽子は赤い帽子で、白い線が入っているもので、上手になると白い線が2本、3本とふえ、次は黒線なんです。紀子はたちまち昇格して黒線になりましたが、そのときはもう一目散に私のところへやってきて、得意そうに見せたんですよ」

 嘉助さんが続ける。

「本当に運動神経のいい子でしたね。家に来たとたん、自転車を買ってあげたら、最初は補助車をつけて後ろから支えてやったけど、2、3回も乗ると、もう後ろを持つなと言うんです。

 それで、1日で補助車付きで乗れるようになり、翌日にはもう、補助車を取ってくれって言うんです。

 危ないからダメだと言っても聞かない。まあ、そばについていれば大丈夫だろうと補助車をとってやったら、器用に乗りこなすじゃないですか。

 あのときのあの子の得意そうな顔を、昨日のことのようによく覚えていますね」

 祖父母が目をみはった紀子さんのガンバリ屋ぶりは、たった2ヵ月しかいなかった中田小学校の担任教師にも強い印象を残している。当時の担任の竹内やえ先生は言う。

「ぜんぜん日本語が話せないので、クラスの海野敬子ちゃんという子に、『どこに行くにも紀子ちゃんの手を引いて行くのよ。職員室に行くにもトイレに行くにも手を離しちゃダメよ』って言ったんです。

でも、最後の頃には『センセ』とニッコリ笑って言ってくれるようになりましてね。別れるときはクラスのみんなに『サヨナラ』と。

 色白で上品で、おカッパ頭のよく似合うお人形さんのような可愛らしい子でした」

 いまでこそ珍しくないが、紀子さんはいわゆる帰国子女。いくら持って生まれたガンバリ精神があったとはいえ、幼な心の苦労の程が偲ばれる。

 高校時代に「帰国子女の研究をしたい」と級友にもらし、仲のいい友達がみな大学の英文科に進むなかで、ただひとり心理学を専攻することを希望したのも、このためだったようだ。

 ともあれ、わずか3ヵ月で紀子さんは静岡から去って行った。

◇学習院に通うお嬢さま。

同級生や恩師達が語った“素顔の紀子ちゃん”

 

 小学校1年生のとき、アメリカから帰国したばかりで日本語がまったく話せなかった紀子さんだったが、それから3年後には大変身をとげた。

 静岡から東京へ帰った昭和48年の9月、新宿区立早稲田小学校に編入、2年後の50年4月には豊島区立目白小学校に転校したが、翌51年、学習院大学初等科の編入試験に挑戦したのだ。

 学習院の初等科の編入試験といえば、数ある私立小学校の編入試験のなかでも最難関。30、40人に1人合格するのがやっとというものだったが、紀子さんはこれに見事合格する。

 当時の紀子さんについて、紀子さんを4年生の1学期から5年生の1学期まで担任した学習院初等科の上野修示先生が『週刊現代』誌に、こうコメントしている。

「ええ、4年生からの編入でしたが、応募者100人ぐらいのうちから試験に通ったのはたったの3人。むろん成績は優秀でしたよ。

 特に作文力のすぐれた生徒でした。

 彼女の印象といえば、とにかく優等生だったということ。衣服のたたみ方も机の中の整理も几帳面でキチンとしていましてね、いつもニコニコと愛くるしい子でしたね」

 しかし、紀子さんは学習院にわずか1年ほど通っただけで、また、海外へと旅立った。今度はオーストリアのウイーン。

 父親の辰彦氏が、ウイーン郊外のラクセンバーグ研究所の主任研究員に招かれたからだった。

 紀子さんを語るとき必ず海外体験が引き合いに出され、“国際感覚を持つお嬢さん”と評されるが、このオーストリアでの体験によって、紀子さんのなかに本当の意味での“国際人”が形成されたようだ。

 紀子さんのアルバムをひもとくと、ドナウ河の岸辺を幼き弟の舟くんをおぶって散歩する1枚がある。紀子さんはいかにも嬉しそうに笑顔をたたえ、舟くんをおんぶしている。

 遠い異国の地にあって、なおかつ弟をやさしく見守る姉としての紀子さん。控え目のなかにもしっかりとした愛情を身につけた紀子さんの姿は、どこかやんちゃな礼宮殿下を包みこむような紀子さんの姿と不思議と重なり合ってくる。

 紀子さんはウイーンで、現地の学校に通い、ドイツ語を身につけ、2年後の昭和54年に帰国した。

 ふたたび学習院。学習院大学女子中等科2年生に編入する。

 これ以後、ずっと学習院での勉学生活。大学に入って礼宮さまと出会う運命になるわけだが、それまでの様子については、じつに様々な証言がある。

 洪水のような婚約報道のなかで各メディアに掲載された同級生や恩師達のコメント(実名・匿名)をピック・アップして、以下並べてみよう。紀子さんの青春の姿が、いま、いきいきと甦ってくる。

◎「少し巻き舌で、色白だったから、ハーフに間違えられ、『ハーフなの?』って聞かれるとはにかんでいました。

それから、『話すとき、日本語より先にドイツ語が頭に浮かんじゃう』と言っていたのも印象に残っています」(中等科の同級生)

◎ 「あの紀子さんほど“純粋”という言葉が似合う人はいませんね。それでいて他人にとても気を遣う方。友達と会うと彼女は必ず、『きょうの洋服は素敵ね』と か『きょうの赤いマフラー、とてもきれいよ』とか、あの方にそう言われると誰でも気が和んでしまうんですよ。それと何にでも一生懸命。

大学の書道の授業で隣の席どうしだったんですが、最初はごく普通だったのが、授業が進むとメキメキ上達してしまうんです」(中等科から大学まで一緒の杉本正子さん)

◎「外国生活が長かったせいか、中学時代は国語を熱心に勉強なさっていました。特に作文は、『どうも文章がすっきりしない』と、毎日のように教科担当の久保田先生のもとで指導を受けておられました」(中等科の同級生)

◎「川嶋さんとは中学2年生のときから仲よしでした。2人とも帰国子女だったので、同じクラスになって。

川嶋さんの好きな色はモスグリーンで、少し地味でオーソドックスな服が好きでしたね。モチーフとしては馬が好きで、ネッカチーフやTシャツに、好んで馬の絵をつけてらっしゃった。

私は、大学2年生の頃から礼宮さまのことは存じていました。その頃から結婚の意志はあったようです。

今年(平成1年)の3月には、川嶋さんのご家族と一緒にインドネシアに旅行しましたが、そのときも、礼宮さまにお土産を買われました。プレゼントを選ぶときはじっくり時間をかけ、心をこめた品を選ばれるんですよ」(中等科から大学まで一緒の平野道子さん)

◎「中学1年生のとき、オーストリアから帰国して途中入学しましたが、すぐにクラスの中に溶け込みましたね。

気持ちは積極的ですが、はにかみ屋なので、他人を押しのけて発言するようをことはありませんでしたが、人が嫌がってやりたがらないことを進んでやるタイプでした。

中等科を卒業するとき、雑誌を出して、ひと言ずつクラスメイトにメッセージを書かせましたが、彼女は“えすぷれっそ 虹の彼方に行こうね”と書きました。

いまにして思えば、彼女は文字通り、虹の彼方へ行ったんですね」(中等科時代の先生・寺田勝彦教諭)

◎「仲間内でリーダーシップをとるタイプではないけど、一緒にいると、紀子ちゃんの発する“オーラ”のようなもので包み込まれてしまうんです」(高等科の同級生)

◎「高1の文化祭、クラスでクイズ大会を開き、私と紀子ちゃんが受付をやったんです。そこへ遊びにきた早稲田の学生が、紀子ちゃんに熱をあげちゃって電話番号をしつこく聞いてきた。そうしたら彼女、スラスラと答えちゃったんです。

後で、『ちょっと、いいの?』って聞いたら、『うん、違う番号教えたの』なんてペロッと舌を……。

物静かで上品な人だったけど、茶目っ気もタップリでした」(高等科1年の同級生)

◎「紀子さんはとにかく優しい人。それと、何にでも一生懸命打ち込む人なんです。中1のとき一緒にテニスをやることになり、『私、あまりうまくないの』と言っていたのに、高等科では院内スポーツ大会のダブルスで優勝してしまうんですから。

高2の夏休みが明けた時でした。紀子さんは1学期とは別人のように急にホッソリしているんですよ。毎朝ジョギングをしてやせたらしいんです。

私が、『ずいぶんやせたね』と言うと、『うん。でもまだLサイズ』って答えたんで、『えっ、Lサイズ!?』と驚いたら、『うん。私、背があるから』なんて言っていました」(中等科から大学まで一緒の橋本雅代さん)

◎「夏になって暑くなると、隣の短大まで行って、冷たいジュースを買ってくるんです。高等科には自動販売機がないので……。

先生に見つかると怒られるので、こっそりと。彼女も何回か行っていました。

他の人の分も何本か買ってきて、『先生が来た!』って言うとパッと物陰にジュースを隠したり。そんな憎めない一面もありました」(高等科3年のときの同級生)

――こうしてみると、紀子さんは、優しくガンバリ屋でありながらも、茶目っ気もタップリあった。

 ともあれ、同級生達からはことごとく好かれた。敵がまったくないという素晴らしい思春期。川嶋家の躾の良さが、紀子さんを“いいお嬢さん”に育てあげたといえるだろう。もちろん、成績は優秀。しかも、成績優秀な子にありがちなひ弱さは紀子さんには皆無だった。

 おっとりとした性格でありながら、紀子さんは堂々としたスポーツウーマンでもあったのである。

 5才のときアメリカで始めた乗馬を続け、さらに中1でテニスを始めると、高校では院内で優勝するほど腕をあげている。さらに、オーストリア時代にスキーにも親しんでいて、中2のときの妙高高原でのスキー合宿では、クラスでただひとり、上級コースに選ばれたほどだった。

 こうしたこともあって、高校では山岳部に所属。その一方で、クラスの厚生委員を務め、ハンセン氏病患者のための学内募金活動にもあたっている。

 社会のため人のために尽し、スポーツを通じて自然に親しむこうした紀子さんの姿勢のすべてが、大学に入ると自然文化研究会(自文研)の活動に向かわせる。そして、その自文研は、礼宮さまが中心になって作られたサークルだったのである。

 

◇恩師の国語の先生が明かす“紀子さんと川嶋家の秘話”

 

 礼宮さまとの婚約発表から1カ月後の平成元年10月7日、紀子さんは学習院女子高等科の同窓会(昭和60年卒業)『すずらん会』に出かけた。会場は東京・新宿のホテル・センチユリー・ハイアット。約3時間の楽しいひとときだったが、ここで紀子さんと久しぶりに会ったのが、学習院女子高等科教諭の久保田瑛子(ようこ)さん。高等科の3年間を通じ、学年主管として紀子さんを温く導いた恩師である。

 久保田さんの担当は国語。必須課目の現代国語と、選択課目の中国語、国語表現の3つの授業を通じて、高等科時代の紀子さんを最もよく知るひとりだ。

 高等科の同級生達も「紀子さんのことなら、ぜひ久保田先生に」と口をそろえて言っていたが、久保田さんはマスコミの取材になかなか応じなかった。

 ところが、この同窓会と前後して、久保田さんは週刊誌の取材に応じ、紀子さんの貴重な高等科生活と川嶋家の人々を語ったのである(『週刊現代』9月30日号および『週刊女性』10月31日号)。以下は、その久保田先生の告白を再構成したもの。若き日のプリンセスの秘話として後世に貴重な資料となるであろうし、久保田先生もまた、その願いでマスコミに話をしたのであった。

 

「川嶋紀子さんとの最初の出会いは、高等科1年の教室でございました。おだやかで、ゆかしく、話のひとつひとつにコックリとうなずかれて、いつもニコニコと話を聞く態度が目立ってよいお方でございました。

どんなご家庭で育まれたお嬢さまなのかと、紀子さんを通じまだ見ぬご両親様をひそかにお見上げしておりました」

――“ゆかしい”という言葉の本来の語源は「対象に心をひかれるさま。知りたい、見たい、聞きたいさま」をいうといい、高等科時代の紀子さんは、まさにこの言葉がピッタリの“お嬢さま”だったという。

「ある新聞に『作文がモタモタしているので注意を申し上げたら、めきめきと成績が向上した』との私の談話が出ましたが、あれは違います。紀子さんの作文はモタモタしてはいません。

もし、モタモタしていても、作文のモタモタは個性ですから注意などいたしません。

 ただ、教師の業と申しましょうか、きちんと書かれてはいる、確かにわかっておられるが、満点はつけられない答案もあるのです。

 た とえば、教科書には“おやつ”というひと言でしか出てまいりませんが、実生活では“お三時”“お十時”“虫おさえ”“お口よごし”等々、使い分けて人にす すめます。そうした言葉の数を増やすことは、日常生活のなかでたやすくできますから、表現を的確にし、考えを正確にするためにも、豊かな感性をあますとこ ろなく表現するためにも、夏休み前にお母さまにお手伝いいただこうと思いました。

 そうしたら、お母さまだけでなくお父さままで足をお運び下さいまして、そこで真剣にお話し合いをいたしました。

 そうしましたら、その夏休みの半ばすぎに、お父さまよりお便りを頂載して感激したことを記憶しております。紀子さんが(作文力向上のため)努力している、という報告でございました。永年の教師生活で、父兄の方からのこのような手紙をいただくことは稀なことでございます」

――教室での紀子さんは、家庭の躾がいきとどいているのを感じさせる立派な生徒でもあった。

「平 安期のお姫さまのほめ言葉に“うるわしくものしたもう”というのがございます。これは単に美しい、きれいだというのではなく、端正であるとか、きちんとな さるという意味だと聞いておりますが、紀子さんの仕草はまさに“うるわしくものしたもう”でございます。みんながサボってしなかったお掃除でも、紀子さん を見つけて『お願いね』と言いますと、きちんと果して下さいました。人の嫌がる仕事をいとわずにしてくれるんですね。紀子さんは丹精をこめて、しかも丹念 になさるんです。

 授業中、私は叱った覚えはないのですが、生徒達は全員しごかれたと申しております。

 国 語表現の時間に対応表現や敬語の練習をしたことがございます。ふだんは、私は『ゴザイマス言葉』、生徒は『デス言葉』で話し合っていますが、この時間は 『ゴザイマス』には『ゴザイマス』で答えます。『いいお天気でございますね』『そうですね』ではなく『さようでございますね』というように。

 ま た、敬語や謙譲語の使い分けは、生徒達はみな苦手でございます。たとえば“お茶碗”のように熟した言葉は別として、名詞にむやみやたらに“お”をつけるで ない、“お下敷”“お鉛筆”はよして、敬意とへりくだりの言葉で表現なさいと言っておりましたが、その頃、間違いますと、自分で自分の頬を叩く仕草が生徒 の間で流行しておりまして、一言いってはパチン、またパチンと、みなさんパチパチの連続で、『大切なお顔を叩きなさるな』と私が注意するほどでございまし た。

 紀子さんはご家庭のお躾ができておりましたから、対応表現などは十分おできになるのですが、ときおり言いよどんだりしますと、友人を真似て、ニコニコしながらご自分の頼をパチンと叩くんです。

そのときの可愛い仕草や微笑みが、いまでも目に鮮やかに浮んでまいります」

――国語表現は選択料目だったが、選択したのは紀子さんを含めて5人。この5人の中には、NHK平野次郎キャスターのお嬢さんとエクアドル大使の中山昭氏のお嬢さんがいた。同窓生によると「この2人が飛び抜けて優秀で、紀子さんは特に図抜けてはいなかったけれど、誠実で真面目だった」という。

 紀子さんの周囲の証言に“紀子さんは挨拶がいつもきちんとしていた”というのが多い。

 たとえば、道で近所の人に会うと「ごきげんよう、おばさま。きょうは天気がよろしゅうございますね」とか、「きょうは1日、どうぞよい日をお過ごし下さい」など――。

 紀子さんのこうした表現力は、家庭の躾以外では、おそらくこうした学習院高等科の授業で育まれたのだろう。

「こんな思い出もありました。あるとき、手紙の敬称は『様、殿だけではない。学習院様なんてダメ。御中と書く』と授業で話したのですが、そのおりに、宮家へお出しする場合も『○○宮御殿御奥御中と書き、二重封筒にして、中に○○親王妃○○殿下と書きます』と話しました。

『この中から妃殿下にお上がりにならないとは限らなくてよ』と申しましたが、紀子さんも含め、みんな『エッヘッヘッ』と笑っておりましたね」

――もちろん、久保田先生は一種のジョークで「この中から……」と話したのだが、紀子さんが礼宮さま妃に決定してみると、感慨も新たなのである。

 久保田先生はさらに話を続け、紀子さんと礼宮さまのことにもふれる。

「川嶋教授は言葉のセンスのよいお方で、いつも会話を楽しませていただいております。

 あるとき、教授に、

『お嬢さま、お元気でいらっしゃいますか』

 と伺いましたら、

『私は疎まれております』

 とおっしゃるんです。私が、エッという表情をいたしますと、重ねて、

『最近は、(娘は)私を疎ましく思っているようでございます』

 とおっしゃいます。

 そのとき、私は紀子さん自身も(礼宮さまとのことで)逡巡し、立ち止まりながら、心をみつめておいでになる。しかし、それ以上にご両親さまの逡巡は非常に深いこととお察し致しました。そこで、私は川嶋教授に、

『まあ、素晴らしい、紀子さま、ご成長!』

 と申しあげたら、川嶋教授は、

『成長……、なるほど……』

 とうなずかれる。私は、世の常のお嬢さんの話をいたしまして、

『こうした時期を通り越されますと、そのうちまた、お父さまでなければという風になられますよ』

 と申し上げますと、川嶋教授はじつに嬉しそうな表情をなさいました。私はさらに、こう付け加えたのでございます。

『その次にはドカンとまいります。お父さま、永々、お世話さまでございましたと……』

 川嶋教授とこの会話を交わしたのは、お馬の会の催し(学習院大学馬術部が毎年1月中旬に催す“初乗り会”)でのこと。昨年か、一昨年のことでございます。

 じつは、その前の年でしたか、やはりお馬の会で、私は礼宮さまに、そばに川嶋教授がいらっしゃったものですから、

『川嶋教授にはお嬢さまがおいであそばしますけれども、ご存知でいらっしゃいますか?』

 と伺いました。宮さまは、

『存じております』

 とおおせになりました。そのとき、青年らしい恥じらいを感じました。私は、(宮さまと紀子さんは)いいお友達でいらっしゃるのだなあと、そのとき、思いましたよ。

 その後、あからさまには話題にせずにおりましたが、川嶋教授が『疎まれている』とおっしゃられたとき、私はご家族の苦悩を拝察した思いでございました」

――婚約発表後、久保田さんは紀子さんと電話で話す機会があったが、婚約にはあからさまに触れなかったという。ただ、「すべては神さまが一番いいように決めて下さるから」と言うと、紀子さん優しい声で「はい」と答えたという。

「これからは天皇陛下、礼宮さまをお助けになることがなによりも大切でございます。

 各宮家の妃殿下は、おひと方、おひと方がさまざまな分野のエキスパートでいらっしゃるばかりでなく、ひとりの人間としても学ばせていただくことの多いご立派な方々でいらっしゃいます。

これからの紀子さんは、そのよきお手本を見習われまして、妃殿下としてのご修養をなさいますよう“がんばりましょうね、紀子さま”と、最後に申し上げとうございます」

 

◇特技はなに? で披露した手話。

ボランティア活動に関心も。

 

 礼宮さまとのキャンパスの恋――そのすべてを語る前に、まだふれておかなければならないことがある。

 それは、紀子さんがきわめてすぐれた社会的視野を持っている点である。

 帰国子女の常として、国際的な視野に立つ考え方をするかたわら、紀子さんは高校時代からボランティア活動に精を出すようになっていった。

 故・ 昭和天皇は皇族の条件として、“無私”ということを言われ、その徳を尊ばれ精進することを望まれた。すなわち、自分を捨て国民に尽すことを第一義とされた のである。この昭和天皇の精神は、いまの皇室にも受け継がれ、それゆえ国民から皇室への敬慕もよりいっそう深いものとなっている。

 い ま、紀子さんのボランティア活動をふり返れば、紀子さんがこの点でも、妃殿下となるにふさわしい人だったと思えてくる。先に紹介した久保田先生は、紀子さ んを評して“ゆかしい”と言ったが、まさに紀子さんは生まれながらにしてプリンセスたる運命を背負っていたといえるのだ。

「何かやってみせてよ」

 と、友人にせがまれると、紀子さんは、“ワタシハカワシマキコデス”と、手話で自己紹介したことがあった。

 高等科でクラスの厚生委員を務めた紀子さんは、大学に入って自文研に所属しながら、さらに父・辰彦氏とともに手話サークルにも籍を置いたのである。

 紀子さんの旺盛な好寄心は、大学時代には単なる自分自身の楽しみを超え、社会への関心へと伸びていった。高校時代に活動したハンセン氏病患者への募金活動の延長線上に、手話の修得があり、心身障害児施設の慰問などのボランティア活動があった。

 紀子さんが所属した手話サークルは『のぞみ』という名前だった。紀子さんは、サークルに参加した理由をこう書いている。

“聴覚障害の方と会ったとき、楽しそうに会話をしているのを見て、とても素敵に感じられたため。手話劇『夕鶴』を見て、演技力、手話技術に感動したため。”

 じつに素直なアプローチである。

 この『のぞみ』のメンバーであり、自身も聴覚障害をもつ伊藤文久さんは、『女性自身』平成元年9月26日号で、紀子さんの印象を次のように語っている。

「初めて障害者に接するとき手話を知らないことで、臆したりするんですが、彼女は自然に障害者達のなかに入っていくんです。素晴らしい人だなあと思いました」

 同じく『のぞみ』のメンバーのひとり、佐藤正之さんもこう語っている。

「たいていの人は、私と1対1で 手話で話していても、隣りで友人達がおしゃべりしてたりすると、その話が耳に入ってきて、彼らの会話に加わったりするんです。でも、紀子ちゃんは、ほかの 人の話に気をとられることなく最後まで私と話してくれるし、手話に心がこめられているようでした。それがいちばん嬉しかった」

 紀子さんの人柄のよさは、手話のときでもいかんなく発揮されたといえよう。

 こうした紀子さんのボランティア活動を支えたものに、紀子さんの愛読書といわれる『生きがいについて』という本がある。

 自文研の先輩である池谷のぞみさんが紀子さんと親しく話すきっかけとなったのは、この本を抱えて図書館から出てきた紀子さんにバッタリ出くわしたからだという。

 著者の神谷美恵子さんは精神科医で、皇室とも浅からぬ縁の持ち主。昭和38年3月、美智子皇后が異常妊娠(胞状奇胎)のため人工流産され、葉山御用邸でご静養されていたとき、たびたび見舞ってご相談役を務めた人である。

 その神谷さんの著書を紀子さんが持っていたということは、単なる偶然とは思えない。

『こころの旅』には、次のようなくだりがある。

“その新しい世界ではすべてのものが新鮮な彩りと輝きをおび、恋の相手はいやが上にも美しくまぶしく見える”

“結婚に踏み切るにはつねに冒険が伴う。ときには高い崖からとび降りるほどの勇気と決断が要ることだろう。しかし、冒険なしの人生はありえない”

 池谷のぞみさんは、その当時の紀子さんをふり返り、こう語っている(『週刊朝日』平成元年9月8日号)。

「彼女は、『私は結婚しても自分のやりたいことと主婦業を両立させていきたい』と常々言っていました。かといって、女性の自立に固執するタイプでもありません。

 皇室に入るのも、自分の社会的見聞を広げる意味で、ひとつの可能性と考えているのではないでしょうか」

 礼宮さまと紀子さんのキャンパスの恋は、現代においては他の学生達なら誰でも経験するような“フツーの青春物語”と見るむきもある。しかし、紀子さんの人柄、行動、考えなど、すべての面をこうしてたどってみると、じつに定められた運命のように思えてくる。

 まるで、紀子さんは、礼宮さまに見い出されるためにこの世に生まれてきたようでもあり、礼宮さまにとっては、なんとすぐ目の前に輝く宝石が存在していたのである。

 では、章を改めて、お2人のロイヤル・ロマンスヘと筆を進めよう。