特別記事(1)「世界からズレている日本の大学教育」 印刷

 

                                   

はじめに(サイエンスは理科でも科学でもない)

 まず、こんなことを、あなたはお考えになったことはありませんか?
 なぜ、日本では大学に入るとき、大学そのものではなく、志望大学の学部ごとに入学試験を受けなければならないのか?(アメリカで は、専攻は2年時を終えてから。したがって、入学は大学そのもに入る) 
 また、なぜ、日本には、文系、理系などという分け方があるのか? そして、ではなぜ、心理学は文系なのか?(心理学 は、社会科学なので科学の一分野。つまり本来は理系。欧米はではそうなっいる)
 さらに、経済学は、文系、理系のどっち?( これも、文系ではなく理系である)

 このように、日本の学問体系は世界とは異質で、さらに、学問・教養の入り口とされる「リベラル・アーツ」が確立されていません。つまり、日本の大学教育(初等教育、中等教育も)は、欧米世界から見るとデタラメをやっているのです。

 こんなことは、日本の教育だけを受けてくると、考えもしませんが、私は、娘をアメリカの教育システムで育てたので、いつも考えさせられました。

 そこで、本稿では、欧米では当たり前の「リベラル・アーツ」教育とはどんなものかを考察し、そのうえで、学問とはなにか? なぜ、日本の高等教育は、欧米とは異質で、ある意味でデタラメなのかを、解明してみたいと思います。

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 私の娘は、幼稚園からアメリカン・スクールに通い、大学、大学院はアメリカと中国で過ごしたので、一度も日本の学校に通ったことがありません。だから、日本語と同じように英語もネイティブですが、その娘が高校生のとき、こう私に聞きました。
「サイエンスを日本語ではなんて言うの?」

 それで、私は「理科だよ」と答えました。英語圏では、初等教育(小学校)で「サイエンス」と言えば、それは「理科」のことだからで す。すると、娘は怪訝な顔で「じゃあ、経済学や心理学も理科なの?」と聞き返してきました。ここで、ふつうの日本人なら、「いや違う。それは、文系だか ら、理科じゃない」と答えるでしょう。

 私は、最初、娘の質問の意味がわかりませんでしたが、娘がサイエンスを「学問、とくに科学」の意味で使っていることがわかったので、「そうだよ」と答えたのです。

 すると、娘は「日本語ってなんか変だよ」と言うのです。

 理科も科学も学問も、英語ではぜんぶ「サイエンス」です。これで問題ありません。しかし、日本人にとって、「経済学や心理学が理科」 というのは、納得がいかないでしょう。娘も日本人である以上、同じように違和感を覚えたのです。だから、わざとこんな質問をしてきたというわけです。

 以来、私は、この違和感を解消するため、なぜ、「サイエンス」が日本語では、「理科、科学」の意味に限定されているのかを調べました。そうして、初めて、欧米の学問の大系がどうなっているのか、やっと理解したのです。

 日本で高校まで過ごし欧米の大学に留学した人でも、この「サイエンス」の本当の意味を理解していない人が多いのに驚きます。なぜ、大 学で心理学を専攻して卒業すると、「BS」(bachelor of science:バチェラー・オブ・サイエンス)の学位がもらえるのか、最後に付いているscience(サイエンス)がなにかわかっていないのです。

 じつは、日本の大学教授でさえ、このことがわからない人がいます。そうでなければ、「文学部心理学科」などのような学科が存在するわけがありません。

 2008年4月に、私が編集長を務める光文社ペーパーバックスの編集部では『間違いだらけのMBA』(喜多元宏・著)という本を出しました。じつは、このなかの第4章に、これから書くことは詳しく解説されています。この第4章の内容はほとんど、私が著者の喜多氏に提供して構成したので、ここからは、その原稿をもとにして、書いていきます。


 なお、ここからは文体を変えます。「です、ます」調ではなくなります。

 



世界規模で共通化される高等教育


 現在の日本の高等教育システム(higher education system)は、欧米とはまったく異質のものである。なぜ、こうなったのかは推測の域を出ないが、明治時期に欧米の教育システムを日本に移植する際に、数々の誤解、勘違いが生じたためだと思う。


 それでも、それはたいした違いではない、問題はないと言う人もいるが、私にはそうは思えない。なぜなら、この違いがあるから、日本は欧米をいまだに理解できないし、文化、経済、政治など、それこそあらゆる分野で、世界との大きなギャップが生じているからだ。
 現在、世界の高等教育は共通化、統合化が進んでいる。これは、グローバル化が進んだためで、高等教育においてもグローバル・スタンダード(世界基準)を決めないと、なによりも人材の評価ができなくなるからだ。

 グローバル化が始まる前まで、教育は、各国が独自で国民に提供するものだった。しかし、グローバル化したいまの世界では、各国が独自 で教育をやり、そのプログラムに沿って学位を認定していては、そこで育つ人材には、当然、バラツキが出る。そうすると、もっとも困るのは企業である。同じ 「大学卒」といっても、アメリカの大学卒、日本の大学卒、中国の大学卒、フランスの大学卒では、どこがどう違うのか?――これがハッキリとしなければ、企業 は人材を採用できない。国内だけでビジネスをしている企業は別として、グローバル展開している企業はとくに困る。

 そこで、各国の大学を比較して、その教育の質、レベルを測る「世界基準」が必要となってきた。現在、この動きは進んでいて、国際機関を中心にしてガイドラインづくりが行われている。

 たとえば、UNESCO(ユネスコ)やOECD(経済開発協力機構)などがその旗振り役となって、加盟国に対して「大学の国際的な認 証評価制度の構築」を呼びかけている。現在、アメリカなどで行われているような大学の格付けを、もっと大きな規模で行おうというのだ。そして、これをイン ターネットを通して発信し、受験生にも卒業生を採用する企業にも自由に提供するという計画が進んでいる。

このままでは日本の大学はランキングを落とす 


 ところが、日本の大学は、まったく異質な教育システム、学問大系で運営されているから、評価すらできない。とすると、いちばん困るのは、じつ は、そういう異質さを知らずに日本の大学に入ってしまった学生たちである。日本の将来を担う彼らが、世界とズレてしまっては、日本はますます衰退するし、 なにより、彼らがかわいそうだ。


 現在でも、日本の大学は、世界的な「大学ランキング」では順位が低い。たとえば、有名な英国『タイムズ』紙が毎年発表している「THES」(The Higher Education Supplement)の「THE-QS世界大学ランキング2008年版」では、東大は19位だ。トップ100まで見ても、日本の大学は、京大が25位、大阪大学が44位とみな国立で、私大にいたっては早稲田がなんと180位である。

 ちなみに、このランキングのトップから15位まではみな英米の大学である。腐っても世界第2位の経済大国の一流大学が、この順位でいいわけがない。

*THE-QS世界大学ランキング:www.topuniversities.com/worlduniversityrankings/

 とすれば、このまま、世界とズレたシステムを続ければ、日本の大学のランキングはもっと下がるだろう。なぜなら、大学評価の世界ネッ トワークができてしまえば、日本の異質さが世界中に知れ渡ってしまうからだ。つまり、日本の「大卒」の価値は、世界レベルで暴落することになる。いま、日 本の多くの大学が、海外の大学と交流協定を結んでいるが、自らを世界標準に合わせないでこれを進めて無意味である。

 くり返すが、なにより、学生がかわいそうだ。

 では、日本の高等教育のどこがどのように異質なのだろうか? 


なぜ卒業大学ばかりが重視されるのか?

 
 まず指摘したいのは、日本では「学術・学問体系」(アカデミア、academia)の構造そのものが、世界と根本からして違うということだ。

 たとえば、冒頭に書いたように、西欧の学術・学問体系から見れば「文学部心理学科」などという「学科」disciplineはありえない。なぜなら、心理学はサイエンスscience(この場合、「科学」という科目ではなくあくまで学問という意味)であって、文学部では教えられないか らだ。

「文学」literatureがサイエンスでないことは誰にも理解できる。しかし、なぜ、心理学が文学部の科目でない、つまり文系でないということに、一般の日本人は答えられない。経済学も同じで、経済学といえば、日本では文系になってしまうのは、なぜなのか?
 単純な話だが、たとえば、日本では、就職でもっとも重視されるのが、学生の出身大学である。「うちは学歴採用はしていない」などと喧伝している大企業があるが、それはほぼウソである。そんなことは、学生のほうがよく知っている。

 それはともかくとして、日本では、この出身大学に続いて、おおまかに文系か理系かが問われる。たとえば、これに「東京大学法学部」 「慶応大学経済学部」などと答えられれば、就職試験では最強であろう。しかし、これで、この学生のアカデミック・バックグランドがわかるであろうか?

 なんと、日本では法学部も経済学部も文系なのである。

 しかも、応募学生の評価を、こうした順序で捉えることも、欧米文化からすると異質である。

 欧米では、大学名というより、まず「メジャー」(major、専攻)が第一で、続いて、その学位(degree)が「博士」 (PhD)、「修士」(Master)、「学士」(Bachelor)のどれなのか、そして、その学位をどこで取得したか(Where did you get it? :つまり大学名、教育機関名)という順序で捉えていく。とくにアメリカはそうだ。

 また、日本では大学入学に際して、学部を選ばなければならない。たとえば、東京大学法学部、慶応義塾大学商学部などと初めから決めなければ、その大学に出願できないことになっているが、これも、欧米から見れば異質である。とくにアメリカの大学は、このような選考方法はしない。出願者 は、ハーバード大学ならハーバード大学に、ユーペン(ペンシルベニア大学)ならユーペンに出願し、入学後2年を経て、そこで初めてメジャーを決めるように なっている。
 

大学院を高校と勘違いされて

 アメリカには、ハーバード大学やユーペン、あるいは州立大学などの総合大学ばかりではなく、アマースト・カレッジやウィリアムズ・カレッジの ような小規模なリベラル・アーツ・カレッジ(liberal arts college)もある。こうしたリベラル・アーツ・カレッジには、日本でいう学部はない。だから、学生は単にその大学に出願する。

 ところで、日本のメディアの記者の多くは、こんなことすら知らない。だから、政治家や芸能人の留学詐称問題が起ったときの記事は、間違いだらけだ。
たとえば、ある政治家の経歴に「1975年、ハーバード大学経済学部入学」などとあったら、これは、どう考えてもおかしい。初めから経済学部に入学するわけがないからだ。しかし、こうした経歴を鵜呑みにする記者は多い。

 いまは、MBAがもてはやされているが、これは、master of business administrationの「学位」degree(修士号、master degree)だから、大学院を卒業してもらえる。ところが、アメリカの大学院には、「プロフェショナル・スクール」professional schoolと「グラデュエイト・スクール」graduate schoolの2つがあり、MBAコースはプロフェショナル・スクールのほうに属す。しかし、この「プロフェショナル・スクール」を、一般の日本人は大学 院とは思わない。「どこの専門学校ですか?」と聞く人がいる。

 私の娘の友人に、ユーペンのMBAコースである「ウォートン・スクール」(プロフェショナル・スクール)の卒業生がいる。つまり MBAホルダーだが、彼は猛勉強して、学部からウォートンに進学した。ちなみに、ウォートンは会計学の分野では、世界一と称せられる名門大学院だ。
 だから、彼はウォートンを卒業して意気揚々として帰国した。

 そして、ある人に「どちらに留学を?」と聞かれ、「はい、ウォートン・スクールです」と答えたら、なんと「それはどこにある高校です か?」と真面目な顔で聞かれて、がっかりしてしまったという。一般の日本人は、「スクール」と聞いただけで、単に「学校」と思い込み、まさか大学院とは考えないのだ。

*The Wharton School of the University of Pennsylvania :www.wharton.upenn.edu/

 しかし、これでは、わざわざ名門ウォートン・スクールでMBAを取得したことがなんにもならない。ただし、こういう一般の日本人を責めるわけにはいかないのも、確かだ。なぜなら、私だって娘をアメリカン・スクールに入れ、アメリカの大学に留学させなかったら、こんなことすら知らなかったかもしれないからだ。


自然「Nature」とはなんだろうか?

 というわけで、日本と欧米の本質的な違いを、順を追って説明してみたい。

 まず、学術、学問とはなんであるかだが、その前に、私たち人間が住む世界の認識からして、欧米世界と日本は違うということを述べたい。なぜなら、これを述べないと、すべてが理解できないからである。私も最初、これがわからなかった。
「世界」(この世)というのは、英語ではworldである。そして、この世界は「自然」natureで成り立っている。私たち人間は、この自然の一部a part of natureである。では、「自然」を辞書で引くとなんと書いてあるだろうか?

『広辞苑第五版』(岩波書店)によると、「おのずからそうなっているさま。天然のままで人為が加わらないさま。あるがままのさま。」と か「山川・草木・海など、人類がそこで生まれ生活してきた場。とくに、人が自分たちの生活の便宜から改造の手を加えていないもの。」となっている。これ が、私たち日本人が認識している「自然」である。

 では、次にnatureを『MSN Encarta』で引いてみると、なんと書いてあるだろうか?「1. physical world: the physical world including all natural phenomena and living things」「3. countryside: the countryside or the environment in a condition relatively unaffected by human activity or as the home of living things other than human beings」となっているから、欧米人も日本人と同じように、「自然」を認識していると思うに違いない。

 しかし、これがとんでもない誤解なのだ。

 というのは、これは大人的な認識、辞書的認識であって、もっとシンプルに見ると、natureの本来の意味は「things God made」(神様がおつくりになったもの)である。要するに、人間がつくったもの意外は、みなnatureなのだ。実際、欧米の母親は子どもに「ネイ チャーってなに?」と聞かれたら、こう答えている。

 これは、欧米世界が「キリスト教世界」Christendomだからである。

神がつくった世界の法則を見つけるのが「学問」

 こうなると、欧米人の頭のなかは、私たち日本人とは違うというのがわかる。神がつくったのが「自然」(nature)であり、私たち「人間」 (humans)はそのなかの一部というのが、欧米人の世界観worldviewであり、ここから、学術、学問など、すべてが体系化されて認識されると、 考えてよい。

 すなわち、神がつくった世界(nature)を貫く法則(rule)を見つけ出すのが、「学問」(サイエンス、science)であ る。だから、欧米では、多くの学位に「science」がつく。経済学にしても心理学にしても、大学で授けられる学位の「BS」「MS」の「S」は scienceのことである。ちなみに、「B」はbachelorのことで、学部卒業で与えられる「学士」であり、「M」はmasterのことで、大学院 卒業で与えられる「修士」のことだ。

 この学位に付く「science」を日本人は、単なる「理科」「科学」のことだと思っているが、それは単に翻訳してそうなっただけで、概念としては、日本語の「学問」のほうがよほど英語のscienceの概念に近い。

 おそらく、明治期にscienceを訳すときに、「理科」「科学」としてしまい、本来の概念にまでたどりつかなかったからだろう。
 
 ところで、大学で授けられる学位には、「A」が付くものもある。すなわち、「BA」「MA」などだ。では、この「A」とはなんだろうか?
これは、art(アート)のことである。


「アート」とは人間がつくったものの総称

 「アート」artというと、日本人は逐語訳から「芸術」をまずイメージし、「絵画や彫刻」などを思い浮かべる。そして、派生語のartist (アーティスト)という言葉から、芸術家やミュージシャンなどを思い浮かべる。もちろん、これはこれで間違っていないが、この連想から、ではなぜartが 大学や大学院というアカデミックの世界で授与される学位なのかは、絶対に理解できないだろう。

 そこで、先に説明したnatureに立ち返って、そのなかで、artは神ではない人間がする行為のことすべてを指す言葉であるということを、まず認識してほしい。

 実際、英英辞典を引いてみれば、artはたいてい「human effort to imitate, supplement, alter, or counteract the work of nature.」のように説明されている。つまり、artとは「人工」ということである。神がつくったものに対して、人間がつくったものがartなのであ る。 

 これは、naturalの反対語がartificialだとわかれば、わかってもらえると思う。
 ところが、日本の辞書には、「自然(nature)の反対語は、文化(culture)」などというものがあるから、誤解を招く。私も、最初は混乱した。

 いずれにせよ、artという行為は人間のものであるから、これを研究、調査、実践したことによって与えられる学位がartと言えば、わかりやすいと思う。つまり、哲学、文学、歴史、美術、建築、音楽などの科目は、ここに属している。

 そこで、日本でよく使われる「学術」という言葉だが、これは明治時代につくられた言葉であり、「学問」と「芸術」を合わせた概念と思えるので、「science+art」のことと考えれば、欧米世界との整合性が、ある程度とれてくるのではなかろうか。

 ただし、artの学位が与えられる文学、歴史、美術などの学科は、「humanities」(ヒューマニティーズ)と言われている。これを、日本語では「人文」と訳している。では、このヒューマニティーズとはなんだろうか?

 ヒューマニティーズというのは、「人間がこれまでartしてきたことを研究し、さらに発展させること」と考えればいい。もっと言え ば、たとえば文学作品を読み込んで、それが書かれた時代を研究したり、古文書や石碑の文の解釈をしてみたり、新しい芸術作品を生み出したりするということ である。

 つまり、これはサイエンスscience(学問)ではない。

 ところが、日本では驚くべきことに、この「人文」(ヒューマニティーズ)に「科学」を付けて、「人文科学」などと呼んでいるから、一般人はわけがわからなくなってしまうのだ。 
これでは、学問の体系など、あってないがごとくである。

 その結果、「文学部心理学科」などいう、本来サイエンスとされるものが文学部にあるという、ありえないことが起こる。さらに、ここに、「文系」「理系」という分け方が加わると、もう、この混乱は収拾がつかなくなるのだ。

 サイエンス(学問)には、大きく分けて、「自然科学(学問)」(ナチュラル・サイエンス、natural science)と「社会科学(学問)」(ソーシャル・サイエンス、social science)があるが、心理学は社会科学である。また、経済学も経営学も、政治学、法学も社会科学である。これを文学や歴史などと同じく「文系」と 言ってしまえば、もはや取り返しがつかない。

サイエンスの発展が近代社会をつくった


 では、ここから、学問の体系というものを、歴史的、俯瞰的に見てみよう。

 学問(サイエンス)というものの基本的立場は、自然界の法則性の発見である。つまり、この世界が神(God=Creator)によってつくら れたかどうかはともかく、そのなかにある「自然法則」rule of natureを見つけ出して研究し、それを人類の生活に役立てるということである。

 こうした立場が確立したのは、西欧世界においては、16世紀以後のことである。ただ、『オックスフォード英語辞典Oxford English Dictionaryの「science」の項には、「直接何かの役には立たない学問。世界の根源を探求する学問」とあるので、サイエンスと言った場合 は、純粋に学問のことを指す。したがって、この「世界の根源を探求」するということは、「この世は神がつくった」というキリスト教的世界観とは厳しく対峙 する。なぜなら、学問(サイエンス)を究めていくと、結局は「神など存在しない」(God isn’t.)ということが証明されてしまうからだ。

 じつは、西欧世界というのは、この学問が発達したことによって、神の世界から抜け出して、私たちがいま暮らしている近代社会(modern society)になったのである。つまり、サイエンスが近代社会をつくったと言っても過言ではない。

 しかし、日本にはこうした歴史がない。だから、西欧近代の学問を大系的にとらえられなかったのだろう。

 いずれにせよ、西洋の「学問・学術世界」(アカデミア、academia)は、遠く古代ギリシア時代のアカデミー(academy)に始まり、中世では、教会を中心にして受け継がれ、やがて学術機関として大学を誕生させたことで、今日にいたっている。

 そのなかで学位が誕生し、サイエンスもヒューマニティーズも発展してきたのだ。

大学の発展と学問の細分化


 一般的に、西欧の大学の起源は、11世紀〜12世紀頃とされる。ヨーロッパ最古の大学としては、1088年にイタリアで開設された Alma Mater Studiorum(いまのボローニャ大学)が知られている。また、1209年にイングランドのオックスフォード大学が誕生し、フランスのパリ大学も時を 同じくして誕生している。

 このような中世ヨーロッパの大学は、たいてい4学部から成っていた。神学部(School of Divinity:キリスト教聖職者の養成)、法学部(School of Law:法律家の養成)、医学部(School of Medicine:医師の養成)の3つと、哲学部(School of Philosophy)である。最初の3学部の目的は、いずれも聖職者、法律家、医者という専門家の養成であった。

 つまり、大学というのはもともと専門家の養成機関だったのである。そして、これらの専門家養成のアカデミアの領域(fields of study)を、「discipline」(ディスシプリン)と呼んだ。日本語にすれば「学科」になるが、この「discipline」は、その後どんど ん細分化・専門化していった。

 新大陸アメリカでも大学はつくられた。ハーバード大学(Harvard University)は1636年に、ユーペンことペンシルバニア大学(University of Pennsylvania)は1749年に誕生している。この間、西欧各国は国家機関として、大学を中心とするアカデミーを持ち、そこで学術研究がさかん に行われたが、産業革命以後は、その領域が飛躍的に増えた。

 たとえば、「心理学」psychology、「社会学」sociology、「政治学」political science、「経済学」economicsなどのソーシャル・サイエンスが確立され、「遺伝学」genetics、「生理学」physiology、 「物理学」physicsなどのチュラル・サイエンスも急速な発展を遂げ、今日の大学の基本的な学問の諸分野が、ほぼ出そろうことになったのである。

 そして、20世紀からの技術・経済の発展と、20世紀後半から始まったグローバル化により、学問領域はさらに細分化し、サイエンスに は「アプライド・サイエンスapplied science」(応用科学)と呼ばれる「エンジニアリング」engineering(工学)などができ、コンピューターの発達により、「コンピュー ター・サイエンス」computer scienceもなども誕生した。

 ちなみに、西洋概念のアカデミー(学術をつかさどる機関、組織)としての大学は、東洋においては、3世紀頃に中国の南京(当時の金陵)にできている。

 私事だが、この南京大学に、私の娘はジョンズホプキンズ大学国際研究大学院(SAIS)の学生として留学した。それは、SAISがアメリカの大学では初めて、20年以上前に南京大学と提携したからだった。

 *The Johns Hopkins University-Nanjing University Center for Chinese and American Studies:nanjing.jhu.edu/index.html

アカデミアの体系と分類はこうなっている


 では、こうして発展してきたアカデミア(サイエンスとヒューマニティーズ)はどのように体系化し、分類されるのだろうか?

 ここに、現在におけるおおまかな体系分類を示しておきたい。
List of Academic Disciplines
  (学術・学問学科一覧)

(1)Humanitiesヒューマニティーズ(人文)
   1.1 History(歴史)
   1.2 Philosophy(哲学)
   1.3 Religion(宗教学)
   1.4 Languages and linguistics(語学&言語学)
   1.5 Literature(文学)
   1.6 Visual arts(視覚芸術、絵画、映画など)
   1.7 Architecture, design and applied arts(建築、デザイン、工芸など)
   1.8 Performing arts(芸能、音楽、演劇など)
(2)Social sciences ソーシャル・サイエンス(社会科学)
   2.1 Anthropology(人類学)
   2.2 Archaeology(考古学)
   2.3 Area studies(地域研究)
   2.4 Economics(経済学)
   2.5 Ethnic studies(民族学)
   2.6 Gender and Sexuality studies(ジェンダー&セクシュアリティ研究)
   2.7 Geography(地理)
   2.8 Political science(政治学)
   2.9 Psychology(心理学)
   2.10 Sociology(社会学)
(3)Natural science ナチュラル・サイエンス(自然科学)
   3.1 Space sciences(宇宙科学)
   3.2 Earth sciences(地球科学)
   3.3 Life sciences(生命科学)
   3.4 Chemistry(化学)
   3.5 Physics(物理学)
(4)Professions and Applied sciences プロフェションズ&アプライド・サイエンス(専門職&応用科学)
   4.1 Agriculture and forestry(農林)
   4.2 Business(ビジネス)
   4.3 Education(教育)
   4.4 Engineering(工学、工業技術、エンジニアリング)
   4.5 Family and consumer science(家族&消費者)
   4.6 Health sciences(健康科学)
   4.7 Journalism, media and communication(ジャーナリズム、メディア、コミュニケーション)
   4.8 Law(法学)
   4.9 Library and museum studies(図書館&博物館)
   4.10 Military sciences(軍事科学)
   4.11 Personal service professions(個人サービス専門職)
   4.12 Public affairs(公共業務専門職)
   4.13 Social work(社会福祉専門職)


日本人の勘違い! 数学は学問ではない


 さて、これを御覧になって気がついた方もいると思うが、この学術・学問大系のなかに、「神学」(Theology)、「数学」(Mathematics)、「医学」(Medicine)が含まれていない。

 これは、なぜなのだろうか?

 これも、一般の日本人が理解できない点で、じつは、これらはサイエンスとは言い難いからである。

まず、「神学」だが、これは中世ヨーロッパまではアカデミアの中核をなしていたが、現代となっては学術たりえなくなっている。なぜ なら、神が存在することを前提として存在する学問だからである。つまり、神学というのは昔においては、すべての学問のいちばん上に位置していたのだ。ま た、哲学と神学を同一視する向きもあるが、そもそも異なるものである。

 次に「数学」だが、これは「Formal sciences」(フォーマル・サイエンス、形式科学:適切な訳語なし)という分類をされることが多い。ただ、日本のように「自然科学」には分類しない。

 数学を学問の一種だと思っているのは日本人だけであろう。なぜなら、数学は自然界には存在しないものだから、サイエンスとは見なせな いからである。したがって、学問をするためのツールという位置付けとなり、現代の「コンピューター・サイエンス」(Computer science)もまた、フォーマル・サイエンスである。しかし、日本ではこれが工学部の学科になっていたりするので、唖然とする。

 そして、「医学」だが、これは日本では自然科学と見なすことが多い。しかし、欧米ではほとんどが「応用科学」に分類し、医者養成に関 しては、専門のメディカル・スクール(プロフェッショナル・スクールの1つ)が行うことになっているので、この分類のほうが妥当なのである。

 このように見てくると、日本の学術・学問の大系分類が、いかに欧米と異質(あるいはいい加減)であるかがわかるだろう。

 

「リベラル・アーツ」がすべての学問の基礎


 ここで、西洋世界の学術・学問の基礎とされている「リベラル・アーツ」liberal artsについても触れておきたい。これを日本では「教養学」と訳しているようで、大学では「一般教養」として学部名になっているところもある。欧米の高 等教育では、このリベラル・アーツがすべてのヒューマニティーズ、サイエンスの「入り口」(gateway)、「基礎」(fundamentals)と考 えられており、これらの科目を履修した後にメジャー(専攻)を決めるシステムになっている。

 また、リベラル・アーツに特化した少人数のリベラル・アーツ・カレッジは、いまでも名門総合大学より高い評価を得ている。しかし、日 本には、西洋から輸入した教養はあっても、元のリベラル・アーツ自体がないから、大学教育、大学院教育の位置付け、あるいは学位認定が混乱するのだ。
  

 リベラル・アーツの起源は、古代ギリシアまでさかのぼる。プラトンは、哲学の予備学として、文芸や幾何学の必要性を説き、これを人間 としての教養と考えた。この場合の人間は非奴隷ということだから、自由人(つまり市民citizen)には、こうした教養が要求されたのである。ローマ時 代になると、自由人に必要な諸技術は「アルテース・リーベラーレース」(artes liberales)と呼ばれ、これが英語で言うところの「リベラル・アーツ」となった。

 ローマ時代の末期、この自由人の技術は7つの科目に整理され、これはいまでも、「セブン・リベラル・アーツ」(seven liberal arts、「自由7科」)として、欧米の大学教育では重視されている。

「セブン・リベラル・アーツ」は、主に言語にかかわる3科目の「三学」 (トリウィウム、Trivium) と、主に数学に関わる4科目の「四科」 (クワードリウィウム、Quadrivium) の2つに分けられる。Trivium(三学)が「文法」(Grammar)、「修辞学」(Rhetoric)、「弁証法(論理学)」(Logic)であ り、Quadrivium(四科)が「算術」(Arithmetic)、「幾何」(Geometry)、「天文」(Astronomy)、「音楽」 (Music)である。
 この上に哲学があり、さらにその上に神学があるというのが、この時代の学術・学問大系だった。

 その後、中世のヨーロッパで大学が誕生した際、この自由7科は、学問の科目として公式に定められた。この伝統は西欧の大学ではいまも生きており、さらに、西欧の体系をそのまま引き継いだオーストラリア、カナダなどでは、独立した哲学部を持つところもある。

米国のニューイングランドに多いリベラル・アーツ・カレッジに行くと、講堂(オディトリアム)の高みを、ぐるりと7体の女神像(goddess)が取り囲んでいるということがある。この女神は、それぞれ7つの学科の「守り神」を表している。

娘が留学した東部のリベラル・アーツ・カレッジ

 2001年9月、私は、この7体の女神像のある講堂のなかを、妻と娘と3人で歩いていた。それは、娘の「New Student Orientation」(新入生オリエンテーション)の前日で、私たちはキャンパスにある建物を全部見て回っていたのだ。

 娘を東部のリベラル・アーツ・カレッジに行かせるのは、私の昔から夢であり、その期待に応えて娘は、メイン州のベイツカレッジ (Bates College)というリベラル・アーツ・カレッジに合格し、このときは、「Convocation」(コンヴァケーション:入学のセレモニー)を控えて いた。
*Bates College www.bates.edu/

「親が子どもの大学の入学式に着いて行くなんてどうかしている」とも言われたが、それは、日本だけで通用する常識に過ぎない。いまだ に、大学の入学式に親が出席するのは過保護だという人がいるが、私には信じがたい。アメリカでは、入学ウィークに親が来ないとなると、なによりも子どもの 肩身が狭くなる。親が来ないというのは、全額スカラーシップでまかなうような貧困層の子だけだからだ。

 アメリカの場合、とくにリベラル・アーツのような小規模の大学では、コンヴァケーションのある入学ウィークには、必ず親がやって来る。これは、留学生の親とて例外ではなく、ヨーロッパ、中東、アジア、アフリカからも親たちは来ていた。

 こうして、ほかの親や子どもたち、大学職員や教授たちとパーティなどで親交を深め、子どもの入る寮(ハウス)の部屋を整えて帰っていく。この間、1週間近くも大学で過ごす親もいる。私たちもそうだった。大学近くのモーテルに泊まり、毎日、キャンパスに通った。

 リベラル・アーツ・カレッジがいいのは、なによりも少人数で、学生同士、教職員と学生、また親同士もみな親しくつき合え、そのなか で、子どもたちが育っていくことだ。たいていのリベラル・アーツ・カレッジでは学生と教師の比率が20対1以下で、日本のようなマンモス授業などありえな い。また、学生たちは、ほぼ全員寮に入るので、共同生活のなかで社会秩序や規律も学ぶ。


森の上に浮かぶ月と天空を流れる天の川


 メイン州は、ヘンリー・ソローHenry David Thoreau(1817~1862)が、名作『森の生活』(The Life in the Wood)で描いたように、ニューイングランド最北の森と湖の美しい州だ。ベイツカレッジは、そうしたメイン州の内陸の小さな町、ルイストン (Lewiston)にあり、キャンパスの周囲には深い森や山があって、キャンパス内には小さな湖レイク・アンドリュー(Lake Andrew)があった。

 ただ、人口3万人ほどの町はさびれていて、歩いていても人通りは少なかった。メインストリートといってもほんの数百メートルで、夜開 いているレストランも2、3軒しかなかった。アメリカは車社会だから、日本のように一極集中的な街並みはできようがない。とはいえ、ほとんどの商店がさび れているのは、周囲に大型のショッピングモールやウォルマートができたせいである。

 日本で地方都市の“シャッター通り”が問題になる以前から、アメリカでは地方都市で同じような問題が起きていた。ルイストンも例外ではなく、この町では大学以外はまったく活気がなかった。

 
 私たち夫婦は、そんな町から2マイル、キャンパスから1マイル以上離れたモーテルに泊まり、毎日、歩いてキャンパスに通った。寮に入った娘と 別れて、夜、森の中の道を歩いてモーテルに帰るとき、見上げると一面の星空だった。東京では見られない無数の星が空高くまたたいていた。

 天の川があれほどはっきりと空を流れるのを見たのは、このときが初めてだった。そして、森の上には、大きな月がぽっかりと浮かんでいたのを、いまも鮮やかに思い出す。

「9.11テロ」以後、劇的に変った世界

 娘の入学ウィークが終わって、妻と帰国したのは、2001年9月12日だった。
テレビを着けると、ニューヨークの街並みが映り、WTCが炎上しているシーンがくり返し流されていた。驚いて、CNNに切り替えると、しばらくして、メイン州のポートランド空港が映り、そこからテロリストが飛行機に乗ったとアナウンスされていた。
私たちは、つい20時間ほど前に、そのポートランド空港からシカゴ経由で帰ってきたばかりだった。

 その後のニュースで、「9.11テロ」の主犯とされるモハマッド・アタと仲間の1人が、ポートランド空港のチェックをすり抜け、ボス トンのレーガン空港に飛んだことを知った。彼らは、そこでアメリカン航空11便(AA11)に乗り替え、ニューヨークへと飛び立った。このAA11が、 WTCに突っ込んだのである。
 
 いま思えば、「9.11テロ」以来、世界は劇的に変わってしまった。そして、今回のアメリカ発の金融危機で、世界はまたまた大きく変わろうと している。格差社会が世界規模で広がり、持たざる者と持つ者の差がどんどん開いていったところに、襲って来たのが、アメリカの金融バブルの崩壊である。

 いま、アメリカの大学では学費が払えず、中途退学する学生が急増している。奨学金がストップされたり、アルバイト先がなくなり、仕方なく大学を去る学生が出て、住宅ローン破産者以上に社会問題になっている。

 彼らの未来もまた、強欲なウォール街の連中が奪ってしまったのだ。
 はたして、今後、アメリカの大学はどうなっていくのだろうか?



本来の「学歴社会」とはなにか?

 日本は、よく「学歴社会」と言われるが、本当の意味の学歴社会ではない。私は、アメリカやイギリス、フランスなどのほうが、はるかに学歴社会 だと考えている。というのは、日本で評価されるのは、「大学でなにを学んだか」ではなく、単に「どの大学を出たか」に過ぎないからだ。

 これは、学問も教養も、専門知識も無視しており、本来の「学歴社会」とは言い難い。
「学歴社会」というのは、その意味どおりに取れば、「学歴によって社会的な地位が決まる社会」となるだろう。欧米では、たしかにそうなっている。一流大学卒というブランド価値も尊重されるが、どんな学位を持っているかで、いい就職もあれば、地位にも恵まれる。

 しかし、日本では、学位などほとんど問題にされない。

 なにを学んだか、その結果、どんな学位を得たかを尊重することを「学歴主義」と言う。これを英語で言えば、「クリデンシャリズム」credentialism(学業成績を尊重するやり方)である。

 このクリデンシャリズムは「資格主義」とも訳せる。というのは、弁護士や医者などの資格も、この言葉が意味として内包しているから だ。そこで、これに「学問」をあらわすアカデミックをつけて、「アカデミック・クリデンシャリズム」academic credentialismとすれば、これこそが「学歴主義」であり、それを尊重するのが、本来の「学歴社会」ではないだろうか?

 こうした点からも、日本の高等教育は、一刻も早く世界標準に合わせるべきである。学問大系も、いまのままではいけない。入学前に学部を決めさせることもやめるべきだ。また、世界とかけ離れた4月入学も、3年生でいっせいに就職活動するのも、やめるべきだろう。

 グローバル化で、学術・学問体系も世界で統一化が進み、どの国で取得した学位も、同じ学位なら世界中で通用するようになってきたいま、このままでは、学生も企業も、そして社会も得るところはなにもない。(了)