メディアの未来[012]図書館の存在価値について考える 印刷

 

民主党は図書館づくりに前向きなのか?

 

  9月6日、朝日新聞の日曜読書面の「本の舞台裏」というコラムに、「図書館協、新政権に期待」という記事が載った。

  これは、社団法人日本図書館協会が、先月の8月14日、各政党に対して、図書館に関する政策について文書による質問を行ったところ、民主党が非常に前向きな回答を出してきたので、日本図書館協会は歓迎しているという内容の記事である。

民主党は、党の教育政策の集大成である独自の「日本国教育基本法案」において、生涯学習及び社会教育の重要性を掲げている。したがって、選挙前ということもあり、「図書館や博物館、公民館等の施設と機能の整備」「学校図書館の整備」を図るなどと回答。さらに、「文字・活字文化の振興を図るとともに、司書教諭が不足している現状にかんがみ、その充実に取り組む」とも答えている。

 

図書館の数が少ないのが文化的に貧しいことなのか?

 

これに対し、朝日記事上で、日本図書館協会の松岡要事務局長は、「まずは図書館のない町や村をなくしてほしい。例えば、鳩山由紀夫さんの選挙区がある北海道は、全市町村のうち公共図書館がある自治体は55%にすぎません。沖縄に次ぐ低さです」と、民主党の今後の政策に期待する旨を述べている。

 公共図書館のない市町村は全国に3割近くもあり、10万人あたりの図書館数は2.44で、主要先進国7カ国で最低。ドイツは12.91、7カ国平均は5.46だから、日本は(文化的に)貧しいと、この記事を書いた朝日の記者も訴えている。

 しかし、図書館協の事務局長も朝日記者も、とんだ時代錯誤をしている。このデジタル時代に、旧来の書籍をコレクションし、それを貸出す図書館が必要だろうか?いくら、先進国のなかで図書館数が少ないとはいえ、それに追いつくためにこれ以上図書館のようなハコモノをつくる必要があるだろうか?

 

図書館に来ているのは中高年ばかり

 

いまの公共図書館に足を運んでみればわかるが、昔のように勉強や調べものに来ている学生なんてほとんどいない。いるのは、暇つぶしと、本代の節約のために、図書館で本を借りて読む中高年ばかりだ。しかも、去年の秋からは、不況でリストラされたりした中高年男性の姿がさらに増えた。

つまり、いまの図書館は、情報発信のベースでも、文化的な施設でもない。

ただの地域住民の集会所ぐらいの価値しかないのだ。折からの不況で、今後ますます本の購入費は削られ、それに出版不況が重なって、図書館員のなかには「次は私たちの番」と、リストラに怯えている人もいる。これが、リアルな図書館の現状だ。

それなのに、いまさら図書館をつくってどうするというのか?

時代は確実に変わり、いまやウェブ上で、グーグルが世界最大の電子図書館を持ちつつある。

 

グーグルとマイクロソフト陣営のデジタル覇権争い

 

 グーグルの書籍デジタル化の独占に対抗して、アメリカでは「反グーグル連合」を組んだマイクロソフトとヤフー、書籍検索で競合するアマゾンなどネット業界大手と、同じ危機感を抱く図書館、民間のデータベース構築団体などが、「グーグル和解条項」(Google Book Settlement :GBS http://www.googlebooksettlement.com/ )に異議を唱える「オープンブック同盟」(Open Book Alliance:http://www.openbookalliance.org/ ) を結成した。

とはいえ、どちらの連合も、もはや本や雑誌という「紙」を捨てている。今後、両陣営は、急成長中の電子ブック市場の将来をかけた戦いを展開するものと思われる。

 

やっと日本でも始まった蔵書のデジタル化

 

  日本の図書館も、最近やっと蔵書をデジタル化するようになってきたが、その動きは本当に遅い。著作権法改正によって図書館でのデジタル化が許容されたというのに、この7月末にやっと国立国会図書館が、本格的なデジタル化を進めると公表した程度である。

 国会図書館の館長の長尾真氏の構想によると、国会図書館の外部に設立する電子出版物流通センターから、ユーザーに対してデジタル化された蔵書の配信サービスを提供するという。つまり、従来の図書館での貸し出しを、オンライン化するというものだ。

 この構想を受けて、2009年8月6日、日本経済新聞が「国会図書館の本有料ネット配信」「著作権管理へ新法人」 という記事を掲載した。 その内容は、来春にも、国会図書館、日本文芸家協会、日本書籍出版協会が共同して、デジタル化した書籍のオンラインによる有料配信するサービスが開始されるというものだった。

しかし、この記事は先走りしすぎていて、後に判明したところによると、国会図書館はデジタルサービスの主体ではなく、民間などと共同でオンライン配信を検討中ということにすぎないようだ。

 

  ここ10年以上、国会図書館にも大宅文庫にも行っていない

 

昔は、文化や情報を広めるために、文字を印刷して紙という「デバイス」に定着させることが必要だった。しかし、いまやデバイスは紙から電子デバイスに移った。しかも、それはオンラインでつながり、インタラクティブである。

雑誌の編集者をしていたころ、調べものがあると、国会図書館や大宅文庫によく通った。国会図書館や大宅文庫にしかない資料を閲覧して探し、それを見つけたときはほっとして、コピーしたときはひと仕事終わった気になった。

 しかし、ここ10年以上、そうした施設には行っていない。昔、一日で探した資料は、いまはオンラインでほとんど数分で手に入る。しかも、海外の貴重な英語文献も検索で見つけることができる。なのに、なぜ、デジタル化をもっと進めないで、図書館などというハコモノをつくる必要があるのだろうか?

 

デジタル時代の情報発信センターとしての図書館

 

 図書館の最後の使命は、教育的な利用だ。全米図書館協会は、米国研究教育ネットワーク(National Research and Education Network :NREN)構想のなかで、情報のアクセスセンターとして位置づけられている。NREN を利用するには、コンピュータ、モデム、通信用ソフトウェアなどの基本的設備が必要である。そうした設備を持たない人々にとってののみ、公共図書館は価値がある。

 今後、公共図書館がどうなるかは、2つのパターンしかない。

 第1は、図書館は情報伝達のネッワーク化という技術的変化を無視し、これまで通りのサービスを行っていく。つまり、公共の無料貸本屋だ。第2は、図書館はネットワークのなかで、充実した資料(本とは限らない)を備えて、地域住民から全世界の人々までを含めた情報サービスを行っていく。

 このように考えれば、図書館は必要だが、従来通りの図書館が必要でないのは明らかだろう。